成功例がほとんどなかった「足抜け」

 鳥山検校に身請けされないように、瀬川に思いを伝えて年季明けを待ってもらおうとした蔦重だったが、「年季明けまで毎日、客を取り続ける」という現実がどういうことなのか。現場を目の当たりにして、方針を変えざるを得なかったようだ。蔦重が次に考えたのが「足抜け」、つまり逃亡である。

 蔦重は一冊の本に偽造した通行切手を挟み込み、それを瀬川に渡す。連絡用に使ったのが、近松門左衛門の『心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)』という本だったことからも、蔦重の本気度が伝わってくる。

『心中天網島』では、大坂・天満の紙屋である治兵衛(じへえ)が、曽根崎新地の遊女である小春と深い仲になる。いったんは別れるものの、小春が身請けされると聞いて、治兵衛の思いが再び燃え上がり、最終的には2人は心中の道を選ぶ。自分にもそれだけの覚悟があると、蔦重は瀬川に伝えたかったのだろう。

 だが、その矢先に、井之脇海演じる新之助が、遊女のうつせみと共に吉原を抜け出そうとして失敗。うつせみは、松葉屋の女将・いねから厳しい仕置きを受けてしまう。

 実際にも、足抜けが成功した例はほとんどなかったらしい。吉原を出入りするには、大門を必ず通らなければならない。門のそばには「四郎兵衛会所」と呼ばれる会所があり、番人が目を光らせていた。事前に会所から通行切手を発行してもらい、それを番人に見せなければ通ることができなかったのだ。

仲之町通り(東京都台東区)にある「吉原大門跡」仲之町通り(東京都台東区)にある「吉原大門跡」(写真:共同通信社)

 たとえ男装して門を抜けたり、あるいは、高い堀とお歯黒どぶ(遊女たちが使ったお歯黒を捨てたことから呼ばれた吉原を囲む大ドブ)を越えたりして脱出できたとしても、すぐに追手が派遣される。逃げきれずに捕まえられてしまうことがほとんどだった。

 ドラマでも、「足抜け」の失敗とその後の顚末をみて、蔦重も瀬川も現実的ではないことを悟ったらしい。

『心中天網島』を手渡しながら、「この本、馬鹿らしゅうありんした。この話の女も間夫も馬鹿さ。手に手を取って足抜けなんて上手くいくはずない。この筋じゃ誰も幸せになんかなれない」という瀬川。「間夫(まぶ)」とは、遊女にとっての本当の恋人や愛人の男性のことを指す。

 蔦重は本を受け取りながら、「悪かったな、花魁。つまんねえ話勧めちまって」と応じている。2人だけに真意の分かるセリフのやりとりをさせているあたりは、圧巻のシナリオだ。

 そして、瀬川のこのセリフは、現時点において『べらぼう』史上最高の名セリフではないだろうか。

「この馬鹿らしい話を重三がすすめてくれたこと、わっちはきっと一生忘れないよ。とびきりの思い出になったさ」

 一生の思い出を胸に瀬川は、鳥山検校のもとに身請けされることになった。

 次回の「『青楼美人』の見る夢は」では、蔦重が失意の中、瀬川最後の花魁道中に合わせて出す錦絵の制作に取り組む。

【参考文献】
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』(安藤優一郎著、カンゼン)
『図説 吉原遊郭のすべて』(エディキューブ編集、双葉社)
『蔦屋重三郎』(鈴木俊幸著、平凡社新書)
『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(鈴木俊幸監修、平凡社)
『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(倉本初夫著、れんが書房新社)
『なにかと人間くさい徳川将軍』(真山知幸著、彩図社)

【真山知幸(まやま・ともゆき)】
著述家、偉人研究家。1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。偉人や名言の研究を行い、『偉人名言迷言事典』『泣ける日本史』『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたか?』など著作50冊以上。『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』は計20万部を突破しベストセラーとなった。名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などでの講師活動も行う。徳川慶喜や渋沢栄一をテーマにした連載で「東洋経済オンラインアワード2021」のニューウェーブ賞を受賞。最新刊は『偉人メシ伝』『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』『日本史の13人の怖いお母さん』『文豪が愛した文豪』『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』『「神回答大全」人生のピンチを乗り切る著名人の最強アンサー』など。