法金剛院庭園 写真/shikou/イメージマート

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、清原秋雄です。

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舎人親王を祖とする皇親氏族

 次は皇親氏族ながら、とても他人とは思えない人物を取りあげよう。『日本三代実録』巻二十五の貞観(じょうがん)十六年(八七四)四月二十四日壬子条は、清原秋雄(きよはらのあきお)の卒伝を載せている。

従四位上行右兵衛督越前権守清原真人秋雄が卒去した。秋雄は、右大臣贈正二位夏野(なつの)の第四子である。秋雄は射芸にすぐれ、好んで強弓を引いた。及ぶことのできる人はいなかった。天長(てんちょう)八年、内舍人となった。承和(じょうわ)元年夏四月、嵯峨(さが)太上天皇は大臣(夏野)の双ケ岳の山庄に行幸した。叡賞のあまり、大臣の男である従五位下滝雄(たきお)に従四位下、沢雄(さわお)と秋雄に共に従五位下を賜った。数箇月にして、秋雄は侍従となった。

承和四年十月、大臣が薨去した。そこで官を解かれた。明くる年正月、詔して本官に復された。累進して左兵衛佐や左近衛少将に任じられた。その間、頻りに信濃守・備中権介を兼任し、備中権守・豊前守に転任した。

天安(てんあん)元年冬、母の喪によって官を辞したが、服紀が未だ終わらないうちに、詔して本官に復された。遷任して左馬頭となり、但馬介を兼任した。ついで阿波守に任じられた。貞観八年、従四位下に至った。大和守に任じられ、すぐに右兵衛督に拝任された。貞観十六年従四位上に昇叙され、越前権守を兼任した。

秋雄は細かい行ないを修めなかった。飲酒は度を過ぎ、晩年は酒に沈溺する日々を過ごし、出仕も十分にできないほどであった。卒去した時、行年は六十三歳。

 清原氏については、先に岑成(みねなり)の項で述べた。天武(てんむ)皇子の舎人(とねり)親王を祖とする皇親氏族でありながら、この頃には中級官人を出す氏族に没落し、やがて学者や歌人を輩出する氏族となった。夏野が右大臣に任じられたのはまったくの例外で、夏野の子供たちも中級官人としてさまざまな官を歴任している。

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 秋雄は、弘仁三年(八一二)に生まれた。父は右大臣夏野、母は不明。ちなみに夏野の嫡妻は渡来系の葛井庭子(ふじいのにわこ)と伝わる。天長八年(八三一)に二十歳で内舍人に採用されているから、公卿の子として、まずは順調なスタートを切ったことになる。射芸にすぐれ、好んで強弓を引いて、誰も及ぶことはできなかったとあるから、腕力の方は優れていたのであろう。

 承和元年(八三四)に嵯峨太上天皇が夏野の双ケ岳の山荘(後に待賢門院[たいけんもんいん]藤原璋子[しょうし]によって法金剛院が造られた地)に行幸した際、大臣の男である滝雄は従四位下、沢雄と二十三歳の秋雄は従五位下を賜った。良好な君臣関係が窺える。

 秋雄は数箇月で侍従に任じられ、そこから順調に出世していくかと思われた矢先、承和四年(八三七)十月に夏野が死去してしまった。秋雄は服喪によって解官されたが、翌年正月に本官に復された。その後は昇進して左兵衛佐に任じられたものの、今度は天安元年(八五七)に母が死去し、また服喪によって官を辞した。この時も服紀が終わらないうちに本官に復されている。

 ただ、父のいないなかでの宮勤めでは、出世に強いブレーキがかかったのは、仕方のないところであろう。京官としては、左馬頭と右兵衛督を歴任したに過ぎず、公卿の地位にはほど遠い存在であった。

 天安三年(八五九)に四十八歳で左馬頭に任じられ、貞観五年(八六三)に兄の滝雄が卒去したことによるものか正五位下に昇叙され、貞観七年(八六五)に五十四歳で左近衛権少将に任じられた。貞観八年(八六六)には従四位下に叙され、右兵衛督に任じられた。

 貞観十六年(八七四)には六十三歳で兄の滝雄と同じ従四位上に上った。しかしそれもつかの間、同年四月二十四日に卒去したのである。六十三歳というと当時の平均寿命から考えるとけっして短命というわけではないが、もう少し出世したかったかもしれない。

 秋雄の卒伝で気になるのは、その癖についてである。細かい行ないを修めなかったというのは、皇親氏族らしいおおらかな性格を想像されるが、飲酒が度を過ぎ、晩年は酒に沈溺する日々を過ごし、出仕も十分にできないほどであったとなると、王権としても秋雄を出世させるわけにはいかなかったであろう。このような長官を戴く官司というのも、それなりに楽しいものかもしれないが、それも日常業務に支障を来たさない限りにおいては、である。

 なお、秋雄には妻や子女は伝わっていない。それが酒癖と関連するかどうかは、定かではない。

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)