補助金がなければ「高嶺の花」

 その理由の一つは、ドイツでのEVの高価格だ。ベルギッシュ・グラードバッハのモビリティ研究機関・ドイツ自動車マネジメントセンター(CAM)によると、2023年にドイツで登録されたEVの新車の平均価格は5万2700ユーロ(843万円)だった。EVの車種は、2022年の78車種から2023年には105車種に増えたが、割安の小型車が少ない。価格が3万ユーロ(480万円)以下のEVは3車種だけだった。VWの代表的EVであるID.3の価格は3万9995ユーロ(640万円)で内燃機関のゴルフ(2万9275ユーロ=468万円)よりも約1万1000ユーロ(37%)高かった。

 ドイツの中古車市場には、状態が良い内燃機関の車が豊富だ。たとえば約3万キロメートル走っただけのレンタカーなどが、新品同様の状態で、中古車市場に移って来ることがよくあるが、値段は新車の半分程度になる。だが2024年の上半期の時点で、中古車市場で売られていた車のうち、EVはわずか6%にすぎない。これでは、EVは庶民にとって高嶺の花である。補助金がゼロにされたら、高価なEVを買う市民の数が減るのも無理はない。

 自動車市場を専門とする経済学者フェルディナンド・ドゥーデンへーファー教授は、「購入補助金のカットは、破局的だ。1500万台のEVを普及させるという政府の目標は、夢物語だ」と述べ、ショルツ政権を厳しく批判した。

 VWグループの大株主の一つであるニーダーザクセン州政府のシュテファン・ヴァイル首相も、9月25日に同州議会で行ったVW危機についての演説の中で、「連邦政府が去年12月にEV購入補助金を廃止したことは、失敗だった」と述べ、ショルツ政権の決定に強い不満を示した。

 KBAによると、2024年1月の時点でドイツで使われていた乗用車4910万台のうち、EVは約141万台。全体の2.9%にすぎない。補助金廃止によって、2030年までに1500万台のEVを走らせるという政府の目標達成は、さらに遠のいた。

 2023年の販売台数の中にEVが占める比率は、VWグループで8.3%、BMWで14.7%、メルセデス・ベンツで11.8%と低い。

市民に懸念を与える「朝令暮改」

 日本では、時々「EVの時代は終わった」という論調も見られる。だが欧米では、中長期的には、モビリティの脱炭素化のためにはEVが主流になるという見解が依然として有力だ。欧州自動車工業会(ACEA)のルカ・デ・メオ会長(ルノー社長)は、「世界は、EVに向けて走り出している。もう後戻りはあり得ない。ただしEVは政策によって生まれた市場なので、政府の補助金による支援が不可欠だ」と語っている。

 また米国フォード社のジム・ファーリー社長もドイツの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)の9月13日付電子版に掲載されたインタビューの中で、「EVシフトを野球の試合にたとえれば、まだ9イニングスの第1回だ。EV、内燃機関の車、ハイブリッド車が混在する期間は、現在考えられているよりも長くなるだろう」と述べ、世界の自動車業界のEVへの移行は始まったばかりという見方を示している。

 現在ショルツ政権は、VWなどの自動車メーカーを苦境から救うために、産業用電力料金への上限設定、電力料金のうち、電力を送るための費用(託送料金)を減らすための助成、内燃機関を廃車にしてEVを買う市民に対する廃車ボーナスの支給、購入補助金の復活などの案を検討している。

 だがこれまでドイツ政府が見せたEV政策をめぐる朝令暮改は、多くのユーザーに強い懸念を与えている。ショルツ政権は、本当に交通部門のCO2削減を目指すのならば、違憲判決によって歳出削減を迫られた時に、慌ててEV購入補助金を廃止せずに、他の部門の歳出を減らすべきだった。多くの市民、自動車メーカーの経営者たちは、「政府はモビリティ転換を本気で推進する気があるのか」と首をかしげているに違いない。

 不況のために、ドイツの実質GDPの成長率が去年に続き、今年も0.2%のマイナス成長になることを考えると、2020年から2023年まで続いたEVブームが、復活する可能性は低いと言えそうだ。VWグループは、政府の補助金に依存せずに、価格競争力を強化するためには、身を切るような厳しい改革を断行せざるを得ないだろう。

熊谷徹
(くまがいとおる) 1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。近著に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)、『パンデミックが露わにした「国のかたち」 欧州コロナ150日間の攻防』 (NHK出版新書)、『ドイツ人はなぜ、毎日出社しなくても世界一成果を出せるのか 』(SB新書)がある。

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