メジャー史上6人目となる快挙「40-40」(40本塁打、40盗塁)を達成し、ついにはメジャー史上初の「50-50」まで視界に入ってきた大谷翔平。日米を震撼させる男は、幾度となく「前人未踏」の領域にその歩を進めてきた。
その第一歩、プロ入りは約12年前のこと。北海道日本ハムファイターズが「アメリカ行き」を表明していた大谷を「強行指名」したところから始まった。
あのとき、なぜファイターズは大谷を指名し、指揮官・栗山英樹はどう考えていたのか――?
当時のドラフト、そして交渉時のことを綴った栗山英樹の貴重な証言が、848ページにわたる新刊『監督の財産』(9月9日刊行)に残っている。
今回はその内容を特別に3回にわたって紹介する。第2回。
【前回はこちら「【証言】日米を震撼させる大谷翔平が『指名された日』」】
ファイターズという球団の礎を作りあげてきた原動力
(『監督の財産』収録「3 伝える。」より。執筆は2013年1月)
入団交渉は、一にも二にも、とにかく誠心誠意を尽くすしかなかった。
言葉が悪く聞こえるかもしれないが、僕の中では「どんな手を使ってでも」という思いもあった。ただ現実には、誠意を尽くすということ以外、これといって有効な「手」は思い浮かばなかったのだが。
では、なぜそこまで思えたのか。それはファイターズ入団という選択が、彼の野球人生にとって100%プラスになるという確信があったからだ。
そこに一点でも曇りがあったら、いきなりアメリカで野球をやるという選択肢に賛同できる部分があったら、そこまでは思えなかったかもしれない。
ドラフト翌日、まずは学校への指名あいさつを経て、翌週、山田正雄GM(ゼネラルマネージャー)と大渕SDが彼の自宅を訪問。両親と大谷本人へのあいさつと、育成方針の説明などを行った。
「大谷君へ。夢は正夢。誰も歩いたことのない大谷の道を一緒につくろう」
これはその際、僕が山田GMに託したメッセージである。それを書き記したサインボールは同席者しか見ないと思っていたら、山田GMが記者に説明していて少し戸惑った。
次の入団交渉の席では、「大谷翔平君 夢への道しるべ~日本スポーツにおける若年期海外進出の考察」と題した30ページに及ぶ資料を用意し、両親に、高校から直接メジャーを目指すことの厳しい現状、そのリスクなどを説明した。
これはその日のために、大渕SDが準備したものだった。後日、彼に時間を作ってほしいと言われ、丁寧に資料の全容を説明してもらった。
おそらく交渉の席でもそんなテンションだったのだろう、そのあまりにも熱のこもったプレゼンテーションに、まるで僕が説得されているかのような気分だった。
大渕SDの説明からは、思わず「おまえは、父親か!」と突っ込みたくなるほど愛情が感じられた。
僕自身も、こと愛情や思い入れに関しては誰にも負けないという自負があったが、この男も相当なものだ、と。
それは、まさしくファイターズという球団の礎を作りあげてきた原動力、そして魅力、そのものだと思った。