京都御所 写真/hana_sanpo_michi/イメージマート

(歴史ライター:西股 総生)

当時の政治史を研究する一級史料

 大河ドラマ『光る君へ』では、ロバート秋山演ずる藤原実資の日記が、しばしばネタになっている。これは、実資の日記である『小右記』が、当時の政治史を研究する一級史料であることに由来する。実資の愚痴に対して妻が「そんなことは日記にでも書いておけばいいでしょう」とツッコミを入れるシーンは、『小右記』の存在を知っている人には、かなり笑えるネタなのだ。

 実資に限らず、コマメに日記を付ける貴族はけっこういた。『光る君へ』の時代であれば実資の『小右記』や道長の『御堂関白記』、一昨年の『鎌倉殿の13人』の時代なら、九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』などが代表的なものである。なお、歴史学の用語では、日記の書き手を「記主(きしゅ)」と呼ぶので、覚えておくとよい。

藤原実資 菊池容斎『前賢故実』より

 彼らの日記は、もとはといえばカレンダーから出発していた。手帳の余白や家計簿の備考欄を、簡単な備忘録として利用している人、いますよね? 同じように平安貴族も、朝廷が発行する具注歴(ぐちゅうれき)というカレンダーの余白に、その日の出来事を書き込んだのだ。道長の『御堂関白記』もこのスタイルだったが、実資のように書くことが多いと独立した日記となり、次第に独立スタイルが一般化していった。

『御堂関白記』一部

 内容は、日々の出来事や見聞を客観的・事務的に記すのが基本である(実際は朝のうちに前日のことを書く)。ちょっとした感想や愚痴を「驚いた」「けしからん」みたいに書いていることも多いが、現代人の日記やブログに比べれば、かなり実務本位といえる。

 ではなぜ、そうした日記を付ける貴族が増えていったのかというと、当時の政治状況と密接な関係がある。『光る君へ』が描く10世紀後半〜11世紀前半ばという時代は、一言でいうと摂関政治、つまり摂政や関白が政治の実権を握った時代である。この政治状況が、日記の需要をもたらしたのである。どういうことか。

 もともと律令官制で、政府の最高幹部となるのは太政大臣・左右大臣・大納言で、平安時代になると内大臣と参議が加わる。これがいわば閣僚メンバーで、その下に弁官(べんかん)局という事務局があって、文書の作成や管理に当たっていた。

 一方、摂政・関白というのは、正規の官制に定めのない天皇の補佐役である。ドラマにしばしば登場する蔵人所(くろうどどころ)も、天皇の個人的な秘書室のようなもので、蔵人頭(くろうどのとう)は秘書室長というわけである。

 要するに、摂関政治というのは天皇を閨閥支配で取り込むことによって、政治を私物化するシステムなのだ。と同時にこの時代は、貴族たちが荘園による資産形成を進めてゆく時代でもある。現代にたとえるなら、内閣よりも官邸の補佐官や首相個人の秘書が政策決定権を持って、皆で裏金を貯め込んだり私腹を肥やしたりしているようなものである。

 こうして政治の私物化が進むと、朝廷のポストは利権としての性格を強め、だんだん家ごとに世襲される資産のようになってくる。二世大臣やら世襲関白やらが幅をきかせるわけだ。兼家が道長に、何より大事なのは家だと言ったり、まひろの父の為時が官職にありつけずに困窮するのも、こうした政治状況を反映したエピソードなのである。

 おわかりだろうか。貴族たちは、政界でのし上がり、政治を運営してゆくために必要な実務のノウハウや手続き、資産状況などを、家ごとに記録して子供たちに伝えてゆく必要に迫られていたのだ。つまり彼らの日記は、家業の業務日誌なのである。

 加えてこの時代は、徹底した前例主義である。政策決定の手続きや儀式の段取り・作法などについて、前例をよく知っていることは、デキる男の必須条件なのだ。日記をコマメにつけていた実資が、まさにそうだった。貴族たちにとって日記とは、出世や権力掌握、資産形成のための大切な武器だったのである。