蒙古襲来絵詞の中に、文永の役で竹崎季長本人が一騎で突進し、馬が元軍兵士に射殺される場面があります(歴史の教科書で見たことがあると思います)。この絵が、よく一騎打ち文化の証拠とされてきました。しかし蒙古襲来絵詞の別の箇所では、複数人の騎馬武者がかたまりとなって弓で射かける場面も描かれています。
また蒙古襲来絵詞には、竹崎季長が家子郎党とともに行動している記述もあり、日本側も集団戦が基本であったことがうかがえます。中国側の資料にも、幕府軍は四方から押し寄せて来たなどという戦況が描かれています。時代錯誤な一騎打ちで戦っていたという記述はみられません。
根拠とされた史料は“トンデモ本”
では、なぜ幕府軍が一騎打ちをしていたと後世に伝わってしまったのか。服部英雄氏は、文永の役の重要史料とされてきた「八幡愚童訓」(はちまんぐどうくん)が原因であると指摘しています。
八幡愚童訓とは、元寇が終わってから数十年後に書かれたとされる史料です。文永の役、特に対馬や壱岐島における戦闘を描いた唯一と言っていい史料で、これまで両島における戦いに関する研究はほぼこの資料のみに依存してきました。先ほどの一騎打ち戦法の無力さに関する記述も、この八幡愚童訓を出典としています。
しかし服部氏は、八幡愚童訓はきわめて信用性の低い史料であると断じています。事実関係をはじめ実態にそぐわない記述が多いからです。