写真:スポーツバックス

「パンデミック」が起きたとき、スポーツ業界に携わる多くの人間がこう口にした。

「スポーツは不要不急ではなかった」

 どうすれば自分たちが役に立つのか。思い悩んだアスリート、関係者は多い。年が明けてすぐに発生した能登半島地震。

 スポーツに何ができるのか。上原浩治らのマネジメントを行うスポーツバックス・澤井芳信による連載第4回。

再びの「震災」、能登半島の被害

 2024年は震災で始まったといっていい1年になった。

 1月1日の夕方に能登半島地震が発生し、甚大な被害をもたらした。たくさんのかけがえのない命が失われ、いまなお避難所生活を強いられている被災者がいる。

 私も尊敬するスポーツ界で活躍する先輩を失った。昨年12月に新たなアリーナ構想を語っておられた姿が今も記憶に鮮明だ。

「いまを生きる」ことに必死な人たちの前では、人々の心に豊かさを届けるスポーツやエンタメは無力でしかない。日本は、東日本大震災も、それ以前にも以後にも発生している地震や災害と常に隣り合わせである。

 そんな国でスポーツを生業とする私たちには、何ができるのか。何をしなければならないのか。答えが見えない課題と向き合い、自問自答の日々を過ごしている。

 私事で恐縮だが、両親は今回の地震で甚大な被害に見舞われた能登半島で生まれた。戦後間もなく生まれた父は幼少期を石川で過ごし、その後に京都へ出てきた。

 母は現在の能登町の生まれで、父との見合いで石川から京都へ移り住んだ。母の実家がある能登は、私にとっても夏休みによく帰省した思い出の“田舎”である。大規模火災が発生した観光名所「輪島朝市」にも足を運んだことがある。

 母は7人きょうだい。地震直後、90歳近くになる一番上のお姉さんと連絡が取れず、不安な時間を過ごしていたという。幸いにも、他のお姉さんのところへ連絡が入り、金沢市内の自分の子どものところへ避難できていたそうだ。

 発生直後から多くのニュースが飛び交い、被災者の様子もテレビなどを通じて目の当たりにした。

 自分に、スポーツにできることは何だろうか。

 大それた考えはなかった。唯一、インターネットを通じて寄付すると同時に、フェイスブックに「自分の両親が、能登の輪島付近の出身なんです。親戚もたくさん石川におります。寄付します。できることから」と記して、信頼できる寄付サイトのリンクを貼り付けた。

 2004年、新潟県中越地方を震源とする地震が発生したとき、社会人野球の選手だった私は新潟出身の友人のトレーナーと一緒に現地へボランティアに向かった。