新年早々、ハバロフスクを訪問したプーチン大統領(1月11日、写真:ロイター/アフロ)

プロローグ/プーチン新大統領誕生の背景

 ソ連邦は今から102年前の12月30日に誕生しました。

 1917年の「2月革命」(旧暦)で帝政ロシアが崩壊し、ケレンスキー内閣樹立。その年の「十月革命」(新暦11月8日)によりケレンスキー内閣が倒れ、レーニンを首班とするソビエト政権が誕生しました。

 その後ロシアは赤軍と白軍に分かれた内戦状態となり、ソビエト連邦は1922年12月30日に成立。そのソ連邦は1991年12月25日に解体され、ロシア共和国は新生ロシア連邦として誕生しました。

 ゆえに、今年はソ連邦誕生102周年、ソ連邦崩壊・新生ロシア連邦誕生33周年になります。

「強いロシア」を標榜する、KGB(ソ連国家保安委員会)出身のV.プーチン大統領(現71歳)は、2005年4月25日に発表した大統領就任第2期2回目の大統領年次教書の中で、「ソ連邦崩壊は20世紀の地政学的惨事である」と述べています。

 プーチン大統領にとりソ連邦崩壊は20世紀最大の惨事でした。

「強いロシア」を目指す本人の頭の中には偉大なるソ連邦復活の野望が蘇っていたことでしょう。

 プーチン大統領がなぜウクライナ全面侵攻に踏み切ったのかよく議論されていますが、筆者の理解は以下の通りです。

 ウクライナ侵攻は本人の世界観(妄想)を実現する一つの過程であり、2014年3月のクリミア併合同様、ウクライナの首都キエフ(現キーウ)は簡単に制圧可能と考えていたと筆者は推測します。

 侵攻開始数日後には首都キエフ陥落。ウクライナのゼレンスキー大統領は海外逃亡、ロシア軍はウクライナ市民に歓呼の声で迎えられ、親露派ヤヌコービッチ元大統領を首班とする傀儡政権が樹立されるはずでした。

 その証拠にロシア国営ノーヴォスチ通信は侵攻開始2日後、キエフ制圧の予定稿を間違って世界に発信してしまいました。

 NATO(北大西洋条約機構)東進を阻止すべくウクライナに侵攻したのに、逆にフィンランドとスウェーデンのNATO加盟の動きを誘発し、結果としてNATO東進を促進。

 これはプーチン大統領の戦略的失敗と言えましょう。

 戦争泥沼化によりプーチン大統領は国内マスコミ統制強化と実質「戦時経済」への移行を余儀なくされ、露マスコミ報道は大本営発表であふれることになりました。

 筆者は、プーチン大統領の軍事的勝利はロシアの戦略的敗北を意味するものであり、その先に待っているものはプーチン王朝の弱体化にほかならないと考えます。

 では、ロシアになぜプーチン大統領は誕生したのでしょうか?

「強いロシア」を渇望するロシアの民衆がプーチンKGB予備役大佐に夢を託したのでしょうか?

 筆者の結論を先に書きます。いいえ、違います。

「弱いロシア」を実現したB.エリツィン・ロシア連邦初代大統領は2期目に入るとますます国民の支持を失い、2000年6月に予定されていた次期大統領選挙では露共産党勝利が視野に入ってきました。

 共産党政権になって困るのは、ソ連邦の国家資産を搾取して大金持ちになった新興財閥(オリガルヒ)。

 その彼らが白羽の矢を立てた人物こそ、当時無名のプーチンKGB予備役大佐でした。

 プーチン大統領はいかにして大統領となり、なぜ大統領職に固執し、独裁者の途を歩んでいるのでしょうか。

 本稿では、最初の奥様リュドミーラ・プーチナが語る夫像を通じ、プーチン大統領誕生の軌跡と、知られざるプーチン人物像に言及したいと思います。