社会貢献という素顔は両親の教えから
八代のもう一つの顔として、ボランティアや動物保護、女子刑務所慰問など、社会貢献活動に積極的に取り組んでいた姿を忘れてはいけません。
東日本大震災勃発直後、誰もが被災地に二の足を踏んでいたとき、率先して駆けつけ、被災者の心に飛び込んでいったことが思い出されます。
こうした八代の人生や姉御(あねご)肌気質を考えるうえで、父親・敬光さんの存在が大きく影響していたことは間違いありません。
「浪曲の切なさにジャズをミックスした歌」と評された八代の歌声ですが、敬光さんはそれこそハスキーな声で広沢虎造などの浪曲を鼻歌代わりに語り、ギターの弾き語りも上手でした。娘・明代(亜紀の本名)が刺激を受け歌手をめざすようになったのも、父の購入した米国ジャズ歌手、ジュリー・ロンドンのレコードを耳にしたのがきっかけだったのです。
敬光さんは絵の才能もあったうえ面倒見がよく、人の役に立つことが好きだったようで、後年、娘の八代がボランティア活動に熱心だったことも、その血脈所以だったのかもしれません。
「一人では何も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」という生き方は、両親からの教えでした。
子供のころから絵を描くのが好きで得意だった八代だったので、父親は芸能界に進むよりも芸術の世界に進むことを望んでいたのでしょう。
二つの才能を持っていた八代が中学卒業後に「歌の世界」のほうを選んだことは、日本国内に限らず、多くの人々を歌の力で楽しませ感動させることになったのですから、これは「歌手・八代亜紀」という人生の選択をさせた見えない力に感謝するしかありません。
人生は閉じれども、歌声は未来永劫!
「80歳まで現役」を希望していた八代でしたが、残念ながらその願いはかないませんでした。
しかし、「もう一度逢いたい、もう一度聴きたい」という多くのファンの思いが続く限り、その歌声はいつまでも私たちの心の中で響きわたることでしょう。
「演歌の女王」の演歌とは「演ずる歌」と説き、「自分は表現者ではなく、歌が描く主人公の気持ちを代弁して歌っているだけ」と言い続け、半世紀にわたり私たちに歌声と笑顔を届けてくれた「演ずる歌の女王」、八代亜紀。
冥福を祈りつつ、彼女がいちばん大切にしていた言葉を彼女自身に捧げます。
──ありがとう。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)