『全日本歌謡選手権』からスター街道へ

 八代がキャバレー回りをしていた20代前半、テレビでは『全日本歌謡選手権』という、プロ歌手も出場できるオーディション番組が話題を呼んでいました。クラブ歌手時代の顔見知りだった男性がすでに10週勝ち抜きのグランドチャンピオンとなり、「五木ひろし」として再デビュー、『よこはま・たそがれ』を大ヒットさせていた頃です。

 満を持して番組に出場した八代が審査員の高い評価を得ると、所属レコードのテイチクも応援に乗り出し知名度もアップ。昭和48年(1973)、ついに『なみだ恋』の大ヒットとなって、これまでの苦労が報われます。

 晴れてここに、五木・八代という、その後の演歌の世界を担う男女スター歌手のそろい踏みとなりました。

 その後の昭和50年代は順風満帆、『もう一度逢いたい』『おんな港町』『舟唄』などを引っさげ、「NHK紅白歌合戦」の紅組トリを10年間で3回務めるなど、まさに紅白の顔でした。

 昭和55年(1980)には『雨の慕情』(詞・阿久悠、曲・浜圭介)で日本歌謡大賞とレコード大賞をダブル受賞、ついに頂上を極めます。

『雨の慕情』のあと、オリコン・ベスト10に入るような大ヒット曲には恵まれませんでしたが、その後も40数年、近年まで毎年新曲をコンスタントに出し続け、トータル110枚のシングル盤をリリースしています。

 八代がリリースしたシングル110枚という数は、『全日本歌謡選手権』出身者として五木ひろしの133枚に次ぐ多さです。『なみだ恋』以来、半世紀にわたり第一線で活躍し、レコード&CDの総売り上げ枚数が女性演歌歌手でトップを維持してきた人気の証でしょう。

鎮魂歌となった最後のシングル盤

八代亜紀『想い出通り』ジャケット写真より

 通算110弾目のシングル盤『想い出通り』(詞・悠木圭子)は昨年(2023年)3月15日に発売されていますが、結果的に人生最後の八代節となりました。

 過ぎ去った遠い昔を振り返る女性──。同じ夢を見て幸せだった、あの日。あの人は逝ってしまったけれど、想い出の通りを行けば、きっとまた逢える気がする、という惜別感にあふれたこの歌は、八代自らが作曲したものでした。

 作詞の悠木(87歳)は、八代のデビュー初期の曲や最初のヒット曲であり自らの出世作となった『なみだ恋』(曲・鈴木淳)などを提供、二人は旧知の間柄でした。

 かつて八代が出場した『全日本歌謡選手権』で厳しい審査員として知られた作曲家・鈴木淳(令和3年没)の夫人でもあった悠木が、亡き夫とのことを綴った作品でしたが、八代が急逝した今、八代への鎮魂歌ともなりました。