常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである。
アインシュタインが残したこの名言に従えば、常識はもっと疑っていいはずだ。私たちは、身の回りにあるルールを鵜呑みにしすぎてはいないだろうか。SNS上の、もっともそうな風説に流されすぎてはいないだろうか――。日常を「ちょっと疑ってみる」視点を、法哲学の世界から提供する。
今回は、いまなお尾を引く故・ジャニー喜多川氏による性加害問題を考察する。(JBpress)
(住吉雅美:青山学院大学法学部教授)
許されなくなった性的支配
歴史をひもとけば、古代ギリシアでは成人男性が少年を愛しつつ教育するということは当然のことであった。もちろんその裏面には男尊女卑(女は議論する相手ではない)があったのだが。当時の食器などを見ると、成人男性が少年を抱き寄せその性器に手を添えている絵が描かれている。日本にも江戸時代まで武士が小姓や若衆を愛好する「衆道」という習慣があった(もちろんこれにも女人禁制という背景があった)。
歴史的過去にこのようなことがあったからといって、それによって現代の未成年者への性暴力問題が擁護されるわけでは全くない。古代ギリシアや中世・近世のヨーロッパ、また1世紀程前までの日本には、未成年者に対する性支配や性暴力という観念がなかったというだけのことである。
人権や権利という概念は太古の昔からあったわけではない。ヨーロッパの様々な革命を経て確立されてきた。現代はコンシャスネス・レイジング(意識変革)によって、セクシュアル・ハラスメントやパワー・ハラスメントは人権侵害であり、不法行為どころか場合によっては犯罪であるという見解が浸透している。
だからこそ、旧ジャニーズ事務所(現・スマイルアップ)の創業者である故・ジャニー喜多川の生前の行状が問題視されているのだ。
判断能力が未熟な児童や未成年者に対して成人が性的支配をすることは犯罪であるという考え方が確立してきたからこそ、メディアや政治、警察などがジャニーの行為を放置してきたことの責任を問うことができる。