今年3月11日、岸田首相は福島県の追悼行事に出席し、復興支援でできた相馬市の子育て支援施設も視察しながら、漁業者がいる浜には訪れなかった。その日の会見で「関係者の理解なしに海洋放出はしないとの約束は順守するが、特定の人を関係者としたり、理解の程度を数値によって判断したりするのは困難」と当事者の存在をぼやかす発言をした。全漁連会長との会談前日には福島第一原発を視察しながら、地元に向けた発信を最後まで避けた。

先送りされてきた政治決断

「理解」とは何を指すものだったか? これは東電が15年8月25日付で野崎哲・福島県漁連会長あてに福島第一原発の汚染水対策の回答文書に記した文言だった。

 〈漁業者をはじめ、関係者への丁寧な説明等必要な取組を行うこととしており、こうしたプロセスや関係者の理解なしには、いかなる処分も行わず、多核種除去設備で処理した水は発電所敷地内のタンクに貯留いたします〉

 当時、相馬双葉漁協の小型船主会長だった今野さんらは、福島第一原発の汚染水との苦闘のさなかだった。原発事故直後に東電が放出した大量の汚染水のため漁自粛を強いられていた。魚介の安全を一種ずつ確かめる試験操業を始めて間もない13年7月、汚染水の海洋流出事故が発生。漁協が初出荷中のタコの値が暴落し、取引停止も起きた。流出事故隠蔽も発覚し、責任を追及された東電は汚染水を減らす対策に追われた。核燃料デブリの露出した原子炉建屋への地下水流入を防ぐ対策とともに、汚染水から放射性物質を除く「ALPS」(多核種除去設備)を稼働させた。問題は貯留された処理水の処分方法に移り、今に至る。

試験操業でミズダコを水揚げした相馬双葉漁協の漁業者=2013年9月25日、相馬市松川浦漁港(筆者撮影)

「海洋放出」は13年9月、日本原子力学会の原発事故調査委が最終報告案で「自然の濃度まで薄めて放出」を初めて提案。16年4月に政府「トリチウム水タスクフォース」が、地層注入、海洋放出、水蒸気放出、水素にしてから大気放出、固化・ゲル化し地下埋設――の案から、「海洋放出が最も短期間、低コスト」と試算した。以後、閣僚らの「放出やむなし」発言が相次いだが、政府は決断せず、さらに処分検討を政府小委員会に預けて時間を費した。何が被災地に負担をかけぬ方策かを慮ったのでなく、政府がもとより選択したいのは海洋放出案だった。18年になって福島や東京で意見聴取会を始めたが、不安や反対が多数を占め世論づくりは進まず、政府はまた決断を先送りした。

 「海洋放出が現実的と判断した」と、菅義偉首相(当時)が発表したのは21年4月。処理水貯留の限界が近く切羽詰まった事情や、夏の東京五輪、秋の衆院選への影響など政治を優先し、当事者たちとの対話も、国民的「理解」醸成もないままの「2年程度後の放出」の基本方針決定だった。

待っていたIAEAの「錦の御旗」

『政府「錦の御旗」手に/反対、不安 沈静化狙う』。7月5日の河北新報の見出しが伝えた記事は、「処理水放出計画は国際的な安全基準に合致する」とした国際原子力機関(IAEA)の包括報告書を岸田首相が受け取り、国内外への説明を加速させる――との内容で、首相が待ちに待っていたものだった。放出に対し政府や国内世論の反発が強い中国、韓国への理論武装とし、経産相や復興相は相次ぎ東北の各県漁連へ説明に飛んだ。

◎新潮社フォーサイトの関連記事
厚労省「3歳までテレワーク努力義務」に不安の声――その誤解とさらなるテレワーク促進へのヒント
共済の監督指針違反、嘘をついてまで「自爆営業」を隠そうとしたJA福井県
出産と育児、母国への送金……『フィリピンパブ嬢の経済学』に見る国際結婚カップルのリアル家計簿