NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第32回「小牧長久手の激闘」では、ついに徳川家康が羽柴秀吉と激突。しかし、兵力では10万もの大軍を率いる秀吉勢が、はるかに上である。そんななか、家康は小牧山城に兵を集めて……。今回の見所について『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
堅固な陣地「小牧山城」をいち早くとった家康
「天正十二年(1584年)三月 徳川家康と羽柴秀吉との天下を巡る決戦の火ぶたがついに切られた」
そんなテロップとともに始まった今回の放送「小牧長久手の激闘」は、「徳川四天王」をはじめ家臣たちが大活躍。兵力では圧倒的に不利な状況下で、家康がどんな戦いを展開したのかがよくわかるストーリー展開となった。
この「小牧長久手の戦い」については、江戸時代初期に旗本の大久保忠教が著した『三河物語』でも、臨場感たっぷりに記述されている。
「はやくも関白殿は十万余騎を引きつれて、宇留間(各務原市鵜沼)を越えて、犬山へでて、小牧山をとろうとなさった。家康はそれよりはやくかけつけなさって、小牧山に登りなさったので、関白殿も行く手を失って、小口(大口町)、楽田(犬山市)に諸軍は陣をとった」
家康が陣をとった小牧山城は、かつて織田信長が美濃攻めの拠点として築いたもの。家康は城跡を改修し、堅固な陣地としたとされている。
対する秀吉は楽田城(がくでんじょう)で指揮をとり、両者がにらみ合うこととなった。