(*)本稿は『日本のビールは世界一うまい!酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
戦後のキリンは家庭用中心の戦略により、一般家庭への冷蔵庫普及と相まって、シェアをぐんぐん伸ばしていく。1960年代には旺盛なビール需要の拡大に対応し、複数の新工場建設をはじめ設備投資を積極化させる。
我が国の高度経済成長に比例するように、キリンは急成長を遂げていく。
沖縄が返還された1972年にキリンは60.1%のシェアを獲得。ついには6割を突き抜けた。この72年から85年までの14年間、キリンのシェア(販売ベース)は常に6割を超えていた。
最大は76年の63.8%。86年も59.9%と、ほぼ6割を維持していたので、圧倒的な首位だった期間は実質的に15年連続、さらに71年のシェアも59.5%あり16年連続だった、とも捉えられる。
もっとも、この頃のキリンはこれ以上売り上げを伸ばせない状況に陥る。73年以降、独占禁止法(独禁法)に抵触し、会社が分割される危機に直面したためだった。
キリンは国から助けられたわけではなく、あくまで企業努力により高いシェアを獲得した。なのに、独禁法により身動きがとれなくなってしまう。
「頑張れば必ず勝ってしまう。しかし、勝利は自分たちを分割という名の破滅へとみちびいてしまう」(70年代に入社したキリン元幹部)という状況だった。
キリンが6割強、サッポロ2割強、アサヒとサントリーの合計が2割弱という長期にわたるシェア固定化も、このキリンの独禁法という事情が絡んでいた。
仮に独禁法の制約がなければ、キリンのシェアはさらに拡大した可能性は高い。戦費調達を目的にしていたビール税があった戦前、大日本麦酒は、生産量シェア(販売量シェアとほぼ同じ)で75%を占めた。
ただし、大日本は合併により規模を拡大したため、「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」など、複数のブランドをもっていた。これに対し、戦前に唯一大日本に対抗していた三菱系の麒麟は、戦後も「キリンラガー」一択で6割のシェアを獲得していった。
ここに、戦前の大日本と戦後のキリンとの違いがある。キリンが多ブランドを展開していくのは、80年代からである。