(李 泰炅:北送在日同胞協会会長、脱北医師)
北朝鮮で暮らしていた35年前、私は北朝鮮人民軍4軍団・前線区分隊の砲兵だった。義弟(妹の夫)は北送事業で北朝鮮に送還された在日朝鮮人で構成された「24狙撃部隊」の軍人であった。
1970年8月30日、金日成(キム・イルソン)主席から日本潜伏に対して教示があった。「思想的に良い青年たちを選択し、夜でも、どこでも、潜伏して歩き回ることができる訓練をしなければいけません。(中略)これは、すべて秘密裡にしなければなりません」というものだ。
北朝鮮は、最高司令官である金日成氏の言葉に、ただひたすら「分かりました」と言って追従し行動しなければならない国だ。金日成氏のこの一言が教示となり命令となって、翌年、日本の自衛隊を相手にして戦うことを目的とした、総参謀部偵察総局直属の24狙撃大隊「帰国者」部隊が作られた。
北送で送還された在日朝鮮人は、北朝鮮で安全員(警察)や保衛員(秘密警察)、朝鮮労働党員になることはできない(1970年代以降、少し緩和され、例外もある)。
それだけではなく、遠洋漁業はもちろん、海外の大会に出場する運動選手や芸術家も、徹底的な監視の下でしか出場することができない。
ところが、1968年から北へ送還された在日朝鮮人のうち思想や出自に問題がない人間が選ばれ、人民軍に徴集されるようになった。
義弟が軍に入隊したのは1969年のことだ。
最初は一般歩兵として勤務していたが、1971年秋、上部からの命令を受けて狙撃部隊に異動となった。行った場所は、平壌市勝湖区域にあるちっぽけな谷間の村だった。
異動先の部隊には、兵士、上等兵、階級章をつけた軍人などが次々と集まっていた。10人が一つの分隊となり、3分隊で1小隊、3小隊で1中隊、3中隊で1大隊が編成された。
このような狙撃部隊は別名「打撃部隊」とも呼ばれており、北へ送還された在日同胞が80%を占めていた。班長、小隊長、中隊長は基本的に北朝鮮人だが、何人かは在日同胞も抜擢されていた。
義弟の父は1990年に亡くなったとき、在日朝鮮人だが朝鮮総連に生命を捧げた「愛国者」として評価を受けた人物であった。
このように、帰国者狙撃部隊は徹底的に出身を考慮して構成された、最精鋭の部隊だった。