(富山大学名誉教授:盛永 審一郎)
裁判は時に人命を左右する。だが、その判決が常に真実に基づいたものであるとは限らない。
日本ではこの5年間ほど、この国の民主主義を問う政治ショーとして、お茶の間の目をくぎ付けにしてきた事件がある。「森友事件」だ。
国有地払い下げを巡り、財務省の決裁文書改ざんに関与させられたことを苦に命を絶った近畿財務局の男性職員の妻が国を訴えていたが、昨年12月、国側はこれまでの主張を一転させ、賠償請求を全面的に受け入れる手続きを取り、裁判を終わらせてしまった。
原告の妻が裁判を起こしたのは真相究明のためだった。そのため、改ざんに関わった当事者たちが法廷で証言することを求めてきた。なのに国は、それを封じるかのように、カネを払って一方的に裁判を終わらせる方法を選んだ。
ただ赤木夫人の真相究明に向けた闘いは、今後は、財務省元理財局長に対する訴訟を通じて進められていく。この2月9日、赤木さんは元理財局長への請求額を、それまでの3倍の1650万円に引き上げることを裁判所に申し立て、認められたと報じられた。国が行ったような、一方的な「認諾」を元局長にさせないためだ。
しかしいずれにしても裁判という制度は、ときどきぞっとするほどの理不尽さを見せつけることがある。
今、同じく裁判を取上げる作品としてひとつの映画が話題になっている。第71回ベルリン国際映画祭金熊賞&観客賞ノミネート作『白い牛のバラッド』である。
機械のように冷たい官僚制
殺人の罪で夫が死刑となった主人公ミナは、その1年後に裁判所に呼ばれて、第2の証人が真犯人だったことを打ち明けられる。死刑になった夫・ババクは被害者を殴ったものの、殺してはいなかった。2億7000万トマン(約7380万円)が損害賠償として支払われるとのこと。しかし女性は、責任判事であるアミニに対して謝罪要求を新聞広告で出し、さらに最高裁に告訴する――。
イランとフランスとの合作映画である。イランは、日本と同じく死刑制度があり、しかも死刑の数は世界で第2位である。そのためイランでは、政府の検閲より正式な上映許可が下りず、本作は3回しか上映されていないという。そんな背景もあるためか、巷の映画評には「この作品は死刑制度の是非を問いかけている」という趣旨のものが多い。
果たしてそれだけだろうか。もっと突き詰めて言えば、この作品が批判しているのは、司法制度を支配する官僚制ではないだろうか。