愛知万博の開幕直前に「万博とは」を存分に語った泉眞也さん。当時74歳。(2005年2月13日、写真:山根一眞)

(山根 一眞:ノンフィクション作家)

 2022年1月2日の朝、数多くの万国博覧会や地方博覧会のプロデューサーをつとめてきた泉眞也さん逝去の報せを受け、最後の数年を過ごした練馬区内の老人ホームへ駆けつけた。告別式は近親者のみで行われ、数人の弟子たちでそのお手伝いをした。

 新聞各紙に訃報記事が出たのはその10日後だったが、泉さんは私がおよそ50年間にわたって薫陶を受けてきた最大の大親分だった。

 もっとも「泉眞也さんって誰?」と言う人が多いのではないか。

 泉さんほど一般にほとんど知られることがなかった大人物も珍しい。

 泉さんは自分の会社を興すこともなく、「○○○代表取締役」といった肩書きとも縁がなく、生涯フリーランスを貫いたが、都市計画、高速道路のデザイン、地域の文化や産業振興など広い分野で仕事をしてきたため、ぴたりと当てはまる職業名がなかったことも「わかりにくい」人物だった理由かもしれない。また、博覧会は数千万人が来場、感動しても「創作者」の名が知られることはほとんどなく、しかも長くても半年で消滅するため、作家や画家、建築家のように手がけた「作品」も「名」も残らないことがほとんどなのである。

 もっとも泉さんは、「何をしているか説明できないのは、誰よりも新しい時代の仕事をしている証なんです」と、しらっと口にしていたが。