(歴史学者・倉本一宏)
古代の大豪族・上野毛朝臣と同族
今回もあまり馴染みのない氏族の官人を取りあげよう。『続日本後紀』巻七の承和五年(八三八)三月乙丑条(八日)には、池田春野(いけだはるの)という官人の卒伝が載せられている。
散位(さんい)従四位下池田朝臣春野が卒去した。春野は天応以後の人である。延暦十年に初めて官に就き、内舎人に補され、十四年に左衛門少尉に任じられ、大尉に転じた。十九年に従五位下に叙され、内蔵助に任じられ、丹波守を兼ねた。大同元年に従五位上となり、中務少輔・弾正少弼を歴任した。弘仁元年に大蔵大輔に任じられ、三年に正五位下に叙された。続けて遠江・越中守を兼ね、宮内大輔に遷った。天長三年に図書頭に遷った。四年に正五位上に叙され、掃部頭に補された。六年正月に従四位下を授けられた。春野宿禰は能く故事について説き、或いは採用すべきものもあった。天長十年冬、大嘗会を行なうこととなり、仁明(にんみょう)天皇は禊祓を修するため、賀茂河に行幸した。春野は掃部頭として行幸の列に加わった。諸大夫が着用している当色の装束の裾が地面を曵きずっているのを見て、大いに笑って云ったことには、「地面を曵きずるのは尋常の装束で、神事の際の古体のありようではない」と。ついで自らの着していた装束を指して、古体の証とした。その裾は地面より少々高く離れていて、袴の裾が露見していた。諸大夫が皆、驚いてったことには、「古代の儀制は、まさに唐と同じであり、後代の者はこれに倣うべきである」と。春野の衣冠は古様で、身長は六尺余り。人が集まる中では、目立って立っていた。会集した衆人は、注目しない者はなかった。白髪を蓄え、国の元老とはこのような者のことであり、今は見られなくなってしまった。卒去した時、年は八十二歳。
池田朝臣という氏族が史料に登場することは滅多にないが、『新撰姓氏録』では、
上毛野(かみつけの)朝臣と同じ祖。豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の十世の孫、佐太公(さたのきみ)の後裔である。日本紀に合っている。
と見える。天武十三年(六八四)の八色の姓で朝臣姓を賜わっている。「池田」の名は、上野国那波郡池田郷(現群馬県伊勢崎市の南西部)にちなむものである。
同族とされた上毛野朝臣は、上野国の古称である上毛野国の名を負った古代の大豪族である。『日本書紀』によれば、崇神天皇の皇子で東国を治めることになった豊城命(豊城入彦命)を始祖とする。東国経営と蝦夷征討に従事していたという伝承が『日本書紀』に伝わる。神功皇后の「三韓征伐」伝説にも上毛野氏の祖の一連の新羅征討の伝承が見えることから、戦争を含む朝鮮外交にも関係していたのであろう。天智二年(六六三)にも、上毛野君稚子が前将軍として百済救援軍に参加している。こちらも天武十三年に、地方豪族としては珍しく、朝臣姓を賜わっている。
上毛野氏と同祖と称する氏族は、大野・車持・佐味・池田・住吉・池原・田辺・桑原・止美・垂水などのほか、渡来系の氏族とも数多く結び付いている(『新撰姓氏録』)。奈良時代後半以降は、天平勝宝二年(七五〇)に上毛野君に改姓し(『続日本紀』)、弘仁元年(八一〇)に朝臣の賜姓を得た渡来系の田辺史系の上毛野氏(『新撰姓氏録』)が、中心的地位を占めるようになる。
春野は、父母をはじめとする父祖の名もわからず、子孫の名も伝わっていない。享年から計算すると、天平宝字元年(七五七)の生まれとなるが、この時期の池田氏の官人としては、天平宝字元年に従五位下に叙され、左衛士佐に任じられた足継(たりつぐ/後に下総介・豊後守・左少弁)、天平宝字八年(七六四)に従五位下に叙された真枚(まひら/後に軍監・上野介・少納言・長門守・鎮守副将軍)が『続日本紀』に見える。このあたりが春野の父にあたるのであろう。
さて、春野はその出自から考えると、順調に昇進していったと言えるであろう。三十五歳でやっと天皇に近侍する内舎人に補されたというと、出世が遅いと感じる向きもあろうが、元々地方豪族であったのであるから、これでも大変な出世と考えるべきである。四十五歳で貴族としての位階である従五位下に叙されたのも、それほど遅いという感じはしない。
ただ、当時の平均寿命を考えると、これからあと何年、官人として出仕できるかは、本人次第であった。四十代で死亡する人も、それほど珍しいことではなかったのである。その点、春野は、内蔵助・丹波守・桓武天皇大葬の御装束司・中務少輔・弾正少弼・大蔵大輔・遠江守・越中守・宮内大輔と、数々の官を歴任し、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明と五代の天皇に仕えた。その間、位階も従四位下に至っていた。
この間、数々の政変や陰謀が繰り広げられたのであるが、微官の春野にとっては、ほとんど関係はなかったことであろう。歴史叙述というと、どうしても派手な政変劇に目が行きがちであるが、ほとんどの官人はそれらに関係することはなく、中間派としてそれらの動きを傍観し、与えられた職務を淡々とこなし続けていたのである。
最後に補された職が掃部寮の長官である掃部頭というのも、何とも言えずこの人らしい。掃部寮というのは、宮内省所属の令外官で、宮中の儀式・公会の座を鋪設し、それに必要な薦・席・牀・簀・苫・畳などを扱い、また洒掃にあたった。元々、大宝・養老令制では大蔵省掃部司と宮内省内掃部司があって、その所掌を互いに譲り合って支障が多かったため、弘仁十一年(八二〇)に併合して宮内省掃部寮となったものである。
このように、権力中枢とは遠い所で官人生活を続けた春野であったが、実はその長身と白髪以外にも、目立った能力があった。故事、特に古体の装束に詳しく、天長十年(八三三)の大嘗会では、袴の裾の長さについて蘊蓄を垂れ、皆を驚愕させたのである。彼の人生で、もっとも脚光を浴びた日だったことであろう。春野の目には、この日の鴨川は、どのように映っていたことであろうか。この年、春野は七十七歳であった。「国の元老」と讃えられた春野であったが、これがその後の人生に有利にはたらいたわけでもなかった。
その後も大して出世することもなく、当時としては驚くべき八十二歳の長寿を得て、最後は散位として死去した。子孫の名が伝わっていないのは、従五位下に上った者がいなかったせいであろう。
それにしても、政治史的にはまったく目立たず(見た目は目立っていたようだが)、大して重んじられたわけでもない春野が、その知識のお陰で一度だけ、脚光を浴び、皆に誉め称えられるとは、何とも痛快な人生ではなかろうか。何ともあやかりたい話だが、当方は残念ながらこれといった能もなく、ただ老い果てていくだけなのである。