敷地内の案内看板、紹介のWebサイトやブログ、写真集などには「日本人だけで設計・建造された初の(または最初期の)灯台」のように書かれています(表現は少しずつ違います)。ところがその根拠となる文献がなかなか見つかりません。

 西洋式の灯台は、明治時代初期からたくさん建てられました。鎖国が終わり、船を安全に航行させたいという外国の要求が強かったためです。その設計・施工技術の必要性から呼ばれたのが英国人技師のリチャード・ブラントンです。ブラントンは慶應4年(明治元年)から明治9年までの8年間で、築造方として26の灯台を建設しました。ブラントンの後任がジェームス・マクリッチ(明治5年から明治12年まで滞在)です。

 明治10年を過ぎると、設計・施工・灯火管理などの技術を日本人が身に付けていったため、外国人技師は次第に解雇されていきました。マクリッチが明治12年12月、職工長兼機械監督ビックルストンが明治13年6月、冶工監督方ピルルス(ピールス)が明治13年9月に日本を去り、建設および機器製作はすべて日本人が行うようになりました。さらに、燈明番教授方のチャルソンが明治14年5月に日本を去ると、雇われた外国人はいなくなりました。

 立石岬灯台は建設開始が明治13年4月、完成が明治14年6月なので、時期的にはだいたい符合します。

 日本の灯台に関するかなり詳細な資料としては、『日本燈台史』(海上保安庁燈台部編集、社団法人燈光会発行、1969年6月)があります。江戸時代からの灯台の歴史だけでなく、灯台を管轄する組織の変遷、反射鏡を備えた照光器の図解、通信機器の構成図(トランジスタの型番まで記載)など、ありとあらゆる灯台の情報を記載した貴重な資料です。しかし、ここにも(表中の一覧以外)立石岬灯台や「日本人のみで初」に関する記述はありません。

記念額から英文が消えた

 ようやく、燈光会(現在は公益社団法人)が会員向けに発行する会誌「燈光」を見つけました。平成16年12月号に「明治の灯台の話(2) 立石埼灯台」という連載記事が載っています。著者は「灯台研究生」という匿名です。

 同記事によると、立石岬灯台建設場所の視察が行われたのは明治11年6月。そのときの灯台巡視船明治丸にはマクリッチも乗っていたようです。

「マクリッチがいたときに、灯台の等級や建設費用が記された建設伺い書が出されていたこと、彼がいたころすでに2回も実測され、サイズは違うものの、小型の灯台で官舎も含まれた図面も書かれていたことから」、日本人だけで設計・建造されたという記述は再度検討すべきではないかと書いています。

 さらに同記事が指摘する、灯台の入口上部に掲げられている銘板(記念額)も注目点です。立石岬灯台の銘板には「ILLUMINATED 20TH JULY 1881 明治十四年七月二十日初点」と英文(西暦)と和文(和暦)の両方が書かれています。ところが次に建てられた禄剛崎灯台(明治16年7月初点灯)では「明治十六年七月十日初点灯」と和文だけになっていて、それ以降も同様です。

立石岬灯台の銘板

 これらのようないくつかの理由から、記事は「マクリッチが灯台築造方として日本を離れる直前まで携わった最後の灯台が、この立石埼であったと、記録から判断されます」と書いています。

 “最初”か“最後”か。これ以上突き詰めてもそれほど意味はないでしょう。それよりも、明治初期、10年あまりで西洋式灯台を設計・建造する技術を日本人が習得したこと、さらにその成果物がいまなお現役で活躍していること――立石岬灯台の前に立つとこのような“時の流れ”を強く感じたのでした。

 明治時代に建てられて、いまだ現役の灯台は20基以上あります。立石岬でなくてもかまいません。100年を超える建造物の実物を目の当たりにすることで、何か感じられるものがあると思いますよ。