大阪を中心に発展した紡績業。第2次大戦前には主要な輸出品として世界をリードした(写真:AP/アフロ)

 私たちにとって身近な素材である木綿は現在ほぼ100%輸入されている。江戸時代の日本の経済システムは木綿と米が両輪で、木綿などの自然素材は使い切った後、土の中に戻し分解されるリサイクルの輪が回っていた。開国後も、国内で栽培された綿花から綿糸や綿織物を作るなど主要な輸出品として日本を支えている。

 ところが、工業化とともに紡績業が発展し、輸入した綿花で綿糸や綿織物を輸出するようになるにつれて国内の木綿栽培は消えていった。その後の高度成長期の中で「衣」の中心は木綿ではなくなり、リサイクルの輪もなくなった。しかし今、忘れ去られていた国内木綿に復活の動きがある。

「木綿」を軸に、農業社会から工業社会への移り変わりや「商都大阪」の繁栄とゆらぎ、大阪経済の歴史的な構造変化とそれに対応する大阪や河内の人々の模索、そして「河内木綿」の里として知られた八尾で蘇る「木綿リサイクル」の試みとは──。『木綿リサイクルの衰退と復活―大阪八尾を中心とする木綿の経済史―』(ブックウェイ)を7月27日に上梓した作家・前田啓一(まえだ・けいいち)氏に話を聞いた。(聞き手:鈴木皓子、シード・プランニング研究員)

『木綿リサイクルの衰退と復活―大阪八尾を中心とする木綿の経済史―』(ブックウェイ)を上梓した作家の前田啓一氏

──本書で「木綿という素材を通して、江戸時代から現在に至る経済システムの大きな流れを描きたい」と述べられています。

前田啓一氏(以下、前田):現在私たちが使っている木綿は100%輸入されたものです。しかし、鎖国していた江戸時代にはほぼ100%を国内で生産していました。木綿の糸は綿花から採取される繊維をより合わせて作られ、その木綿の糸を織って木綿の布が作られます。木綿を栽培して摘み取った綿花を天日に干す。十分に乾いたら綿花の綿毛を種から分離し(「綿繰り」)、綿毛の密度を均一にし(「綿打ち」)、綿打ちした綿毛を棒に巻き付け(「じんぎ」)、糸車で糸を紡ぎ(「糸紡ぎ」)糸にする。その糸を織り機で織り合わせて布として仕上げ、さらにその布から着物や袋物を作る。これが伝統的な木綿製造の工程です。

 木綿を栽培する農家は、畑で採れた綿花を加工して野良着や着物を作り、破れたら継ぎあてをして、継ぎはぎの着物を着ていました。着物としての限界がきたら、赤ん坊のおしめに使い、おしめとして使えなくなったら引き裂いて雑巾に使う。雑巾としてボロボロになると畑に肥やしとしてすき込みました。木綿の木からとれた綿花から着物を作って、それを最後はまた土に戻していく、これが昔の「木綿リサイクル」です。

 幕末に鎖国が解かれて日本が開国すると、英国などから安くて品質の良い木綿製品が輸入されるようになり、木綿の自給が崩れ始めました。江戸時代から明治時代、農業社会から工業社会への移り変わりが進んで国産木綿が衰退します。その一方で、近代的な方法で木綿の糸を作る「紡績業」が日本経済をリードするようになります。最終的に1930年代ぐらいには、日本は英国を抜いて世界一の木綿産業の大国となりました。