コロナ禍の波にのまれたヨーロッパで、メルケルの存在感が高まっている。この2月までのメルケルへの評価は下がる一方で、在位14年を経てもはや満身創痍、政治的にも肉体的にも力尽きたとまで言われた。2021年9月の任期満了を待たずに自ら幕引きをすべきではないかという声も上がっていた。新型コロナウイルス感染症の拡大は、追い詰められたメルケルに、思わぬ形で強い指導力と信頼感を取り戻すチャンスを与えた。
生まれてすぐ、牧師の父の転勤で東ドイツへ
メルケルは、父が牧師、母は英語教師という西ドイツの教育的で堅実な家庭に生まれたが、1954年、生後数カ月にして父の赴任に伴い、東ドイツに移住した。敗戦とナチズム否定というゼロから国家を再建し、急速な経済復興を遂げつつあった西ドイツから、独裁政権下の東ドイツへの移住は、自由主義への流れに逆行するものだった。自由を奪われることの切実な意味をメルケルは身に染みて感じながら育った。こうした実感は、この3月、感染拡大を防ぐため、国民生活に制約を加えざるを得ないことを訴えたスピーチに説得力を与え、この邪悪なウイルスとの戦いにおいては自由を犠牲にした連帯が必要であることを国民に理解させた。
メルケルの故郷テンプリンはドイツ北東部、ブランデンブルク州の小さな町だった。メルケル一家が住んだ建物には障害者施設も併設されていた。豊かな自然に囲まれ、障害者と日常的に接しながら暮らし、メルケルは弱者への共感を学んだ。「同じ年頃の子たちが違和感を持つようなことを普通に受け止める癖がついた」と後に述べている。森を通り抜け、2キロ以上離れた小学校に歩いて通い、中学生になると自転車で通学した。幼なじみによると、アンゲラは真面目な普通の子で、いつも皆と一緒に遊び、将来、国の指導者になるなど想像もつかなかったという。
大卒後は物理学者
科学の世界では真理が安易に歪められることがない、と考えたメルケルは、19歳でカール・マルクス大学ライプツィヒに進み、物理学を専攻した。イデオロギー的プロパガンダや国家の介入から辛うじて逃れられる唯一の分野と思われたのが科学だった。卒業後は東ベルリンにあった科学アカデミーに職を得、博士号も取得した。
「私は物理学者です。どんな問題にも解答があります。論争の余地を残さないよう十分に考え抜かなければならないのです」とよく言っていた、とオランド元フランス大統領は振り返っている。
時間をかけて慎重に検討するメルケルは、決断が遅いと非難を浴びせられることも多い。危機に当たっては迅速な対応が最優先のこともある。しかし、拙速に走らず、自ら下した決定に責任を持つこと、それがメルケル流だった。オランドによると、部下に任せきれない性格でもあるらしい。
スピード重視のフランス側とじっくり型のメルケルの間にぎくしゃくした空気が流れることもあった。とはいえこのメルケル流は「政治的には問題があるが、方法としては非の打ち所がない」とオランドは認めている。