春日山城(新潟県)にある上杉謙信像

(乃至 政彦:歴史家)

 長尾景虎(上杉謙信)が「上杉の七免許」と俗称される莫大な特権を手に入れて春日山城に帰ってきた。知らせを受けた甲信越関東の武士たちは色めき、武田家臣の真田氏までもが挨拶にやってきた。この時の上杉は武田信玄、北条氏康・氏政の権威を凌駕しつつあった。景虎が関東越山の準備をする最中、桶狭間合戦が起こる。(JBpress)

景虎帰国の理由

 永禄2年(1559)秋、上洛していた長尾景虎が、越後の春日山城に帰ってきた。

 しかも、「上杉の七免許」と今日俗称される莫大な特権を手に入れていた。途方もない成果であった。これを機に、越後のみならず、東国一帯が劇的に揺れ動いていく。

 ところで通説によれば、景虎上洛の目的は、関東管領職・上杉憲政から役職と名跡を譲られる内意を得たので、その許可を将軍に求めるために行われたと言われてきた。だが、もしそうなら、憲政自身も上洛するのが筋であるだろう。なのに、景虎は憲政と一緒ではなかった。

 また、景虎在京中、「景虎帰国の噂があり、これを聞いた将軍が呆れている」という噂が立った。将軍は「根も葉もないいい加減な話である」とこれを否定し、「予は景虎が国を捨てる覚悟で在京しているのをよく理解しているぞ」と声をかけた。このやりとりを見てもわかる通り、はじめ景虎は長期間、将軍のもとに奉公し続ける予定でいたのだ。

 そもそも、上洛が関東管領職と上杉氏の名跡を継ぐために行われたのなら、その許可だけを貰えばいい。だが景虎は将軍から「七免許」と呼ばれる多大な特権を授かった。

 では、なぜ景虎は「七免許」を与えられたのか。もともと将軍たちは、景虎が在京奉公することで、諸国の大名がこれに倣い、戦国時代にピリオドを打つシナリオを思い描いていた。これが首尾よくいけば、景虎は幕政に参加する地方大名の先駆けとして、一気に幕府の重鎮へのし上がるチャンスとなったに違いない。だが、ことは思う通りに運ばなかった。景虎を見習う大名がまったく現れなかったのである。

 そこで、2人と親しい若き関白・近衛前嗣が介入した。幕府再興のシナリオを書き換えたのだ。“実力あっても権威なし”の景虎をひとまず帰国させ、“権威あっても実力なし”の関白と将軍が、景虎の東国経略をバックアップすることにしたのだ。

 つまり「七免許」とは、戦国終焉シナリオの次善策を進めるために与えられたバフ(テコ入れ)なのである。

 越後に戻った景虎は、「京都から与えられた権威と自身の武力をもって、関東甲信越を支配下に置いてからその大動員権を使い、改めて上洛する。その上で幕政を刷新する」というシナリオに沿って動き始める。そこで景虎が最初にするべきことは、東国の有力領主たちに「景虎は七免許を認められた」と喧伝することであった。

上杉七免許の中身と効果

 まず、景虎が与えられた「七免許」の内訳を説明しよう。

 第一と第二に挙げるべきは、関東管領職と上杉氏の名跡である。ただ、後年景虎が「上杉御家督」の許可を将軍から与えられたのは確か(永禄8年6月24日付・遊佐宗房書状)だが、現在言われているように、この上洛で許可されたものとは言い切れない。景虎が憲政の名跡を継承してからの追認である可能性もある。

 第三と第四に挙げるべきは、「屋形」号と「五七桐紋」の使用許可だろう。屋形号は「御屋形さま」と呼ばれる資格である。これは幕府が特別に認めた大名にのみ許された。桐紋は、もともと足利将軍初代の尊氏が菊紋とともに後醍醐天皇から賜ったものとされ、足利将軍の家紋同然となっていた。こうした由来からも想像される通り、将軍から特別に許可された大名だけが使うことを許される貴重な紋章である。

 第五と第六と第七は、「裏書御免」と「塗輿御免」と、「白傘袋・毛氈鞍覆」の使用許可である。「裏書御免」は、封紙の署名を略する資格。三管領(斯波・細川・畠山一族)や相伴衆および足利一族だけに許される特権だ。関東管領職に就く以上の権威となろう。「塗輿御免」は、網代輿に乗る資格で、これも同レベルの特権である。最後の「白傘袋・毛氈鞍覆」の使用許可は、すでに天文19年(1550)に与えられていたもので、国主待遇を約束された大名にのみ認められていたものだ。

 つまり「上杉の七免許」とは、景虎を地方大名として認めるという程度のものではなく、足利将軍にとって無くてはならない特別な大名として公認するものである。これは天下の諸侍たちに対して、「景虎は別格の大名だから、みなみな心して接するべし」と言っているに等しい。

 知らせを受けた甲信越関東の武士たちは、色めきたった。