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 新型コロナウイルスの影響で休校が相次いでいる今こそ読んでもらいたい本がある。37年前に出版されたロングセラー『思考の整理学』だ。著者の外山滋比古氏は「自分で飛べない人間は、コンピューターに仕事をうばわれる」と警鐘を鳴らす。学校教育の枠にとらわれず、コンピューターにできないことを磨かなければ、自然淘汰される、と。(JBpress)

(※)以下は『思考の整理学』(外山滋比古著、ちくま文庫)より一部を抜粋したものです。

グライダー人間と飛行機人間

 学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。

 グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。

 学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。

 人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。

 しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という優秀な、人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も“翔べる”という評価を受けているのである。

 学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんのすこししかしていない。学校教育が整備されてきたということは、ますますグライダー人間をふやす結果になった。

 お互いに似たようなグライダー人間になると、グライダーの欠点を忘れてしまう。知的、知的と言っていれば、翔んでいるように錯覚する。

 指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。それを学校教育はむしろ抑圧してきた。急にそれをのばそうとすれば、さまざまな困難がともなう。

 他方、現代は情報の社会である。グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにも行かない。それなら、グライダーにエンジンを搭載するにはどうしたらいいのか。学校も社会もそれを考える必要がある。

 グライダー専業では安心していられないのは、コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれたからである。自分で翔べない人間はコンピューターに仕事をうばわれる。

依存心をぐんぐん育てる学校教育

 学校がグライダー訓練所のようになってしまうのも、考えてみれば、やむを得ないもしれない。小学校へ入るこどもは、まだ、勉強がよくわかっていない。ものを知りたい気持はあるけれども、どうしたら知識が得られるか、見当もつかない。

 とにかく、先生に言われるように勉強しなさい、となる。ひっぱるものがあるから、動き出す。自分で動くのではない。受身だ。

 本来の学習がそうであってはいけないのはわかり切っているけれども、制度としての学校ができてしまうと、各人の自発的な学習意欲を待っているわけには行かない。就学年齢がきまっている。そのときいっせいに学習への準備ができているはずはないけれども、ひっぱるのには、いっせいでないと不便だ。

 ひっぱられる方は、なぜ、ひっぱられているのかよくわからないままひっぱられる。このはじめの習慣は学校にいる間中ずっとついてまわる。強化されこそすれ、弱まることはない。そればかりか、社会へ出てからも、勉強とは、教える人がいて、読む本があるもの、と思い込んでいる。

 学校の最優等生が、かならずしも社会で成功するとは限らないのも、グライダー能力にすぐれていても、本当の飛翔ができるのではない証拠になる。学校はどうしても教師の言うことをよくきくグライダーに好意をもつ。勝手な方を向いたり、ひっぱられても動こうとしないのは欠陥あり、ときめつける。

 教育は学校で始まったのではない。いわゆる学校のない時代でも教育は行なわれていた。ただ、グライダー教育ではいけないのは早く気がついていたらしい。教育を受けようとする側の心構えも違った。なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に関心をもっていなかったからである。

 そういう熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。

 入門しても、すぐ教えるようなことはしない。むしろ、教えるのを拒む。剣の修業をしようと思っている若ものに、毎日、薪を割ったり、水をくませたり、ときには子守りまでさせる。なぜ教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。そのことをかつての教育者は心得ていた。あえて教え惜しみをする。

 じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。

 昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。グライダーを飛行機に転換させる知恵である。

 それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。

 学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

 いまのことばの教育は、はじめから、意味をおしつける。疑問をいだく、つまり、好奇心もので、自分で考え出したのではない。学校の数学は、いつも、はじめに問題ありき、である。自分で問題をつくり、それを解くという数学は、普通、ついに一度も経験することなくして終る。

 ギリシャ人が人類史上もっとも輝しい文化の基礎を築き得たのも、かれらにすぐれた問題作成の力があり、“なぜ”を問うことができたからだといわれる。飛行機能力がすばらしかったのである。