延暦寺の開祖・最澄の没後1200年にあたる2021年を前に延暦寺が予定していた法灯の全国行脚は、新型コロナウイルスの影響で延期された。いつの世にも、日本の思想・文芸・芸術などあらゆる場面で生き続けている天台宗。伝教大師「最澄」の教えは、律令制度のもとでどのようにして生まれたのか。(JBpress)
(※)本稿は『最澄と天台教団』(木内堯央著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。
日本の国教
日本における天台宗のあゆみをたどると、その周辺におよぼした影響の多彩さに、おどろかされる。基本的な、仏教教理思想としては、宗祖最澄以来、代々の宗人が、つねに他とするどく対決して、つかみとってきた、一乗の思想がある。
すべて生きとし生けるものに、成仏を約束した、この天台法華教学の精髄たるべき一乗思想がなかったなら、鎌倉仏教の、ひろく貴賤上下の垣をとりはらって、専修の一法をもって、仏教の究極の目標に参入するなどという方途は、まったく成り立つはずのものではない。
それぞれの時代の一般社会の思潮に、思想、文芸、芸術のあらゆる場面に、今日なお生きつづけている基礎的な部分に、われわれは、日本の天台宗の影響をとりだすことができる。西欧のそれとは、おのずからはたらきが異なるけれども、天台宗は、いわば日本の国教であると、いうべきであろう。
美丈夫の青年僧
伝教大師最澄(766~822)を慕って、広智(こうち)にともなわれて、下野(しもつけ)の国から、はるばる近江の比叡山に登った円仁(えんにん)が、はじめて最澄にまみえたときである。円仁は、かつて夢にみた高僧のおもかげと、眼前に微笑んでいる最澄のそれとが、あまりにもそっくりなことに、思わず息をのんでいた。
この劇的な対面を語る、『慈覚大師伝』によると、円仁の夢にあらわれた高僧は、「顔の色は素白にして、長け六、七尺」であったという。円仁と出会った最澄は、この大同3年(808)に、齢43におよんでいたはずである。
この色白で、ぬきんでて背の高い風貌は、延暦4年(785)4月、東大寺戒壇院で具足戒(ぐそくかい)を受け、比丘(びく)になったばかりのころは、前途洋々の希望に燃えるかがやく眼光をともなって、凜々しい美丈夫の青年僧であったことであろう。
うなじに、ひときわ目立つ黒子がある、この最澄が、この日に、厳重な250条ほどの戒律を受得して、一人前の比丘となるまでには、当時所定の修学修行の課程を経ているはずである。