HRプロ

「データを制する者がビジネスを制する」そう言われて久しい昨今、あらゆる経営判断にデータ分析は取り入れられています。その反面、経営4大資源「ヒト・モノ・カネ・情報」のうち、こと「ヒト(従業員)」の領域は様々な理由でデータの活用や、データに基づく意思決定が相対的に進んでいません。そうした状況を改善するために編み出されたフレームワークがピープル・アナリティクスです。
 欧米諸国をはじめ先進企業で普及が進んでいるピープル・アナリティクス。これを活用することでどのような経営効果が得られるのか、また初めの一歩を踏み出す上で大切にした方が良いポイントなどを、パナリット ・ジャパン創業メンバーの小川およびトランが全10回の連載でお届けします。

  第1回を担当する私(小川)は、かれこれ十数年間、日系企業/外資企業のそれぞれで採用・人材開発・人事戦略など、様々な人事領域の業務に携わってきました。中でも最も長かったGoogle 本社の人事戦略室(People Strategy & Effectiveness)では、人事データとそれを使った組織全体のチェンジマネジメントについて多くを学びました。そうした経験を踏まえて、データ・ドリブン(得られた各種データから、課題解決・未来予測・意思決定などに役立てる取り組み)な人事のあり方がこれからどのように企業を、そして人事という仕事を変えていくかを、私たちの視点でお話ししていきたいと思います。

データを俯瞰的に捉えることが最善の判断につながる。アップルにおけるリスク回避の事例

 ピープル・アナリティクスとは、従業員に関わるあらゆるデータを活用しより良い人事意思決定を行うことで従業員の幸福度を上げ、それにより経営効果の向上を促す様々な施策の総称です。いち企業と従業員の関係は、採用・研修・社内異動・評価・エンゲージメント・昇給・離職…と、書き出してみると分かりますが、本当に多くの連続的な接点により形成されています。これらの接点を一本に繋げたものを、従業員ライフサイクルと呼びます。

 なぜ従業員ライフサイクルを俯瞰的に捉えることが重要なのか?

 部分的にデータを捉え“木を見て森を見ず”な判断をすると、本質的な課題を見落とすことがあるから…というのがシンプルな答えですが、概念的な話だけだとピンと来ないと思うので、実例をあげましょう。米アップル社が、給与・人事・評価・エンゲージメントの4点のデータを結んだことで、一斉退職と従業員満足度の低下を予防した例です。

 アップルは2003年頃、業績が低迷し株価も1ドルあたりをさまよっていた時期にキャッシュがなかったため、一部社員のボーナスや給与を(4年間で徐々に売却権が与えられる)ストックオプションで支払っていました。幸いにして2006年までの間に事業は多くの変革・成長を遂げ、同時に株価も23倍上昇しました。一見、何の問題も無いように見えますが、実はここにはあるリスクが潜んでいました。2003年の低迷当時にストックオプションで給与を支払われた社員のうち、何と数百人が、2006年内にストックオプションを全てVest(株を売却する権利が確定)する予定でだったのです(!)。シリコンバレーではストックオプションが全てVestするのを待ってから社員が一斉に辞めるということも珍しくありません。もし急成長を支えてきた彼らが、23倍の利ザヤを動機に一斉に株を売却して退職していたら、会社に与える影響は甚大です。

 そこで人事部は、Vestする見込みの対象社員が仮に一斉退職をした場合のインパクトを予測するため、彼らが会社のなかでどういった立ち位置かを把握するべく、人事データと評価データを参照しました。すると、勤続年数の長いこれらの社員はチームの中でも最も重要なメンバーで、また会社の文化醸成にも貢献していることがわかりました。そこで、最新のエンゲージメントサーベイの結果を参照し、これらの優秀なベテラン社員がどうしたら今後も会社に残ってくれるかヒントを探しました。彼らは既に報酬には満足しており、やりがいの感じられる仕事にもついていました。ただし彼らの多くは会社の急拡大の弊害として、(昔に比べて)承認プロセスが長引いたりペーパーワークが増えるなどの“大企業らしさ”に不満を感じていることが分かりました。

 その結果を元に、承認プロセスを簡潔化して理不尽な書類作業を減らすことに注力した人事制度改革を全社的に行いました。この効果もあってか、結果的に懸念されていたVestの対象社員の一斉退職は避けられ、また会社全体の満足度を底上げすることにも貢献しました。これはひとえに、財務・人事・評価・エンゲージメントなどを単体では捉えず、俯瞰的に分析し、すぐにアクションできたからこそのサクセスストーリーでしょう。