海津城(現在の松代城)は、川中島四郡の国衆が築城したとされる。(著者撮影)

謙信にとって「川中島」が大事だった理由

 謙信は、村上義清だけでなく、鴨ヶ嶽城主の高梨政頼、井上城主の井上清政、須田城主の須田満親、長沼城主の島津規久といった「川中島四郡」の国衆らを広く支援していた。

 その理由は、「義」を重んじたためともいわれるが、しかし、謙信の戦略であったことも確かである。

 川中島から謙信が居城とする春日山城までは直線距離でわずか50キロほどしかない。ただ、越後国と信濃国の境に位置する川中島は、謙信にとっても押さえておきたい場所であった。

 謙信が重臣に宛てた書状には、「信州の味方中滅亡の上は、当国の備え安からず候」とある。

「信州の味方」というのは、村上義清ら「川中島四郡」の国衆である。川中島が武田方に押さえられてしまえば、謙信の居城である春日山城すらも危うくなってしまう。

 永禄4年(1561)閏3月、謙信が上杉憲政から関東管領の職を譲られてからは特に、関東出兵の背後を固めるためにも、武田氏の勢力を川中島から排除し、信玄による越後侵入を防ぐ必要があったのである。

 そうして永禄4年の8月、謙信は1万8000余の大軍を率いて春日山城を出陣し、川中島に向かった。これに対し、信玄も2万余の軍勢を率いて川中島に出兵し、武田方の拠点となっていた海津城(松代城)に入ったことから、川中島の戦いがおこることになったのである。

 厳密にいえば、川中島ではすでに3度の戦いが行われていたため、この戦いを第四次川中島の戦いと呼ぶこともある。

 このときの戦いでは、9月9日の夜、信玄が別働隊に妻女山の謙信の本陣を急襲させ、驚いて山を下りた上杉勢を待ち伏せして挟み打ちをしようとしたところ、この作戦を見抜いた謙信によって、武田の本隊が不意に襲われたという。

 ただし、戦いの経過については同時代の史料がほとんど残されていないため、詳しいことはわかっていない。

 武田方の史料である『甲陽軍鑑』には、信玄が一騎打ちしたことが記されている。すなわち、「萌黄緞子の胴肩衣きたる武者、白手拭にてつふりをつゝみ、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜持て、信玄公床几の上に御座候所へ一文字に乗よせ、きつさきをはづしに三刀伐奉る」とある。

 頭を白い手拭で包み、萌黄色の胴肩衣を着た武者が信玄に太刀で3度斬りつけ、信玄は軍配で受け止めたというわけである。そして、「後聞けば、其の武者、輝虎也と申候」と書かれている。

「輝虎」というのは、謙信のことを指す。このときは、まだ謙信と号しておらず、将軍足利義輝の「輝」の字を拝領して輝虎と名乗っていた。つまり、後になって、信玄に斬りつけた武者が謙信であったらしいことが判明したというわけである。