(文:麻木 久仁子)
家族の形とはどうあるべきか。なかなか難しい。もちろん個人としてならば、自由に好きにすればいいのだ。その家族が納得しているのなら端がどうこういう問題ではない。私自身は、それが例えば娘であっても、口を出すつもりもない。成人して一人前になった娘が、この先どんな形の家庭を築こうと、あるいは築くまいと、一度きりの人生なのだからまあなんなりとやってみるべしと思う。
子育ての言説には悩まされた
が、家族にまつわる「政策」をどうするかというと、また話がややこしい。社会全体としてなにをどう負担するかにかかわるからだ。それぞれの価値観が違う以上、政策に対する賛否や好悪の感情もそれぞれで、議論はかしましくなる。どんな人でも家族はおり、営んだ生活の経験があり、そこで染み付いた実感があるからなおさらだ。
夫婦別姓なんてしたい人はすればいいし、同姓がいい人はそうすればいいし、人のうちなど関係ないように思うが、社会のあり方が何を是とするかということが己の実感と違うのはどうも気分が悪いと思う人も少なくないのだろう。姓がバラバラだと家族の一体感が損なわれるというのもよく聞く。
私自身もかつて悩まされたのは帝王切開や母乳にまつわるあれこれ。帝王切開で生まれた子どもは落ち着きのない子どもに育つと言われたことがある。そんなこと言われても帝王切開しなかったら死んでたんだけどな。あるいは母乳。出が悪くて乳房のマッサージも青あざができるほどしたのだがどうにもならず、粉ミルクにした。が、訪問して来た保健婦さんに仕事のために手抜きで粉ミルクにしたと責められたことは今でも苦々しい思い出だ。
赤ん坊は3歳までは母親が見るのが一番、というのもなかなか強固に信じられている。最近も地位の高い政治家が言っていた。こうした言説は、働く母親たちに後ろめたさを与えているのは想像に難くない。
わたしたちはこうしたことを自らの実感をもとに判断している。家で編み物をし、毎朝温かい味噌汁をつくってくれた母を懐かしく思い出す人は、やはり母親は家にいるべきだと思うのだろうし、バリバリ働く母の背中が自慢だった人は、女ももっと社会に出るべきと思うのだろう。