総力戦となった第1次世界大戦では、毒ガスを含めた、ありとあらゆる新兵器が実戦に導入され、悲惨な結果を招いたことはよく知られている。なかでも陸上では戦車や航空機が本格的に登場したことの意味合いが大きい。大戦の前後では、戦争の様相が一変したからだ。戦場の花形であった騎兵と、輸送の主役であった馬が消え、「機械化」が大規模に進展することになる。

 帝国陸軍でも機械化の推進が急務であることは理解されていたが、予算の制約もありなかなか思うように進まなかったのが実態だ。帝国陸軍で戦車部隊に所属していた加登川幸太郎氏(元陸軍中佐)が、『帝国陸軍機甲部隊-栄光少なく苦難多き生涯』(白金書房、1974)で無念さをこめて語っているが、そもそも当時の日本は自力で自動車を生産する能力に乏しく、戦車どころではなかったのだ。

 これに対して、ソ連はスターリンの指導のもと、「5カ年計画」によって重工業化を急ピッチで推進していた。「第1次5カ年計画」(1928~1932年)、「第2次5カ年計画」(1933~1937年)の成果が、日ソ間の大きな格差としてノモンハン事件で顕在化したのだ。米国から始まった「世界大恐慌」(1929年)を尻目に、社会主義国のソ連は着々と実力を蓄えていたのである。

 独裁者スターリンによる「大粛清」はソビエト赤軍にも及んでいたが、工業力を基盤にした軍事力に関しては、ソ連と日本の格差は開く一方であった。端的に見える形で現れたのが、戦車の装甲の厚さであり、無尽蔵に見えるほど豊富に使用された砲弾の数量である。「火力万能主義」のソ連に対して、砲弾の絶対数が少ない日本。まさに太平洋戦争の結末を予感させるものがあった。

 もちろん、日本にも特筆すべき戦法はあった。それは火炎瓶による攻撃である。サイダーの空き瓶に砂とガソリンをつめて、歩兵が肉弾攻撃で戦車に投げつけて炎上させたのだ。火炎瓶は、帝国陸軍から「スペイン市民戦争」(1936~1939)に派遣された観戦将校が学んだ戦法らしい。モノ不足状態での創意工夫という面では特筆すべきものであり、実際に大きな成果を生み出したようだ。

『鉄か肉か-ノモンハン戦秘史』(山中峯太郎、誠文堂新光社、1940)の表紙カバー(筆者撮影)

 とはいえ、ノモンハン事件の翌年に出版された山中峯太郎の軍事小説『鉄か肉か-ノモンハン戦秘史』(1940年)というタイトルにもあるように、「鉄」すなわちソ連軍の戦車部隊と、それに対して火炎瓶で立ち向かっていった「肉」すなわち日本の歩兵による「肉弾戦」は、勇猛果敢であるとはいえ、あまりにも非対称的で悲壮感さえ感じさせるものがある。

 当初は大きな成果をあげた火炎瓶による戦車攻撃は、そのうち効果があがらなくなってしまう。即応能力の高いソ連軍が、ただちに戦車の「改善」を実行したからである。この点は、太平洋戦争末期の「特攻」と同じである。どうも日本人には「慣性の法則」が働きがちで、臨機応変さに欠けるきらいがあるようだ。

「精神主義」のみがアドバンテージであった帝国陸軍。国力のなさ、工業力の弱さが機械化の遅れをもたらした悲哀。ある意味では機械化の啓蒙を意図した小説であった『鉄か肉か』には、「財団法人機械化国防協会」の会長と副会長(それぞれ陸軍大将と陸軍中将)が序文を寄せているが、表向きの文章とは違って、行間から苦衷がにじみ出ているのを感じてしまう。結局のところ、機械化は絵に描いた餅に終わってしまったからだ。

 ノモンハン関連の記録を読めば読むほど、日本の将兵が置かれていた状況に悲しくなってくるのを禁じ得ない。「先の大戦」で招集され、戦車隊予備士官であった司馬遼太郎が最終的に執筆を断念した気持ちも、わかるような気がする。

反省すれど、教訓は活かされず

 ノモンハン事件の敗戦については、陸軍内部でも反省検討会がもたれている。だが、報告書が作成されたものの「厳秘」扱いにされて金庫に入れられたため、ほとんど読まれることもなく、したがって教訓はほとんど活かされなかったようだ。

 失敗要因としては、先にも触れた機械化の遅れのほか、作戦を重視して情報を軽視した陸軍の体質などさまざまな問題点が指摘されている。作戦面でも、歩兵との連携がとれない戦車部隊や、歩兵との連携がとれない航空部隊など、陸軍内でも通信コミュニケーションに問題があったようだ。フェイク情報で攪乱するソ連の戦法に騙されてもいる。そういうところに、日本人の弱点が露呈しているように思われてならない。この弱点は、現在でもあまり変化はないのではないか。