第2次世界大戦の引き金に

 “先の大戦”(大東亜戦争)の最終盤、「日ソ中立条約」を一方的に破棄したソ連が満洲に侵攻し、精強とされた関東軍が総崩れとなった。このことについては、前回のコラム「あの抵抗がなければ日本は分断国家になっていた」で取り上げたとおりだ。

 第2次世界大戦において、枢軸国のドイツはすでに1945年5月に敗戦しており、残るのは日本だけだった。したがって、大東亜戦争における日本の敗戦は、同時に第2次世界大戦の終結となったのである。

 意識されることが少ないが、実はノモンハン事件は、第2次世界大戦の引き金の1つになっていることに注目したい。その代表的な論者は『ノモンハン1939-第二次世界大戦の知られざる始点』(みすず書房、2013)の著者スチュアート・ゴールドマンである。その背景を簡単に説明していこう。

 ノモンハン事件で日本を惨敗に多い込んだソ連は、日本側の想定とは異なって満洲国への進撃は行わず、停戦交渉に持ち込むことにした。というのも、戦いの最中の1939年8月23日には「独ソ不可侵条約」が締結され、独ソ間ではポーランド分割が密約されており、9月1日にドイツによるポーランド侵攻が開始され、翌々日の9月3日には英仏がドイツに宣戦布告したからだ。大規模な戦争になると踏んでいたスターリンは、ソ連東部の日本との戦争は早めに片付け、兵力をヨーロッパ側に集中したかった。だから、日本との停戦交渉を急いでいたのである。

 実際に、ノモンハン事件の停戦交渉成立のわずか2日後、ソ連はポーランドに侵攻している。ノモンハンでの戦いが長引いていたら、ソ連の行動は大きな制約を受けることになっていたのである。

 日本国内では、ノモンハン事件は太平洋戦争につながったことが強調されがちだが、世界史的にみれば以上のような見方が必要になる。複雑だとはいえ、世界情勢を読み切れなかった日本の指導層の視野の狭さを感じないわけにはいかないだろう。これに対して、ソ連(=ロシア)がつねに世界情勢を視野に入れているのは、ヨーロッパとアジアにまたがる「ユーラシア国家」だからである。極東の島国・日本の大きな違いがそこにある。北方領土返還交渉にあたっても、状況は同じだと考えなくてはならない。

帝国陸軍が喫した「初の敗戦」

 ノモンハン事件は、帝国陸軍にとっては「初の敗戦」でもあった。日清戦争、日露戦争で勝利した経験はあっても、敗戦経験はなかったのだ。

 ノモンハン事件は、大きくわけて3次にわたる戦闘に分けられる。

 第1次(1939年5月11日~31日)は日本側からの先制攻撃であり、ハルハ河を渡河して日本軍と満洲国軍がモンゴル側に侵攻。準備不足のソ連側は大きな犠牲を出している。

 第2次(6月27日~7月25日)は、日本側はソ連側の反撃を予想せずに総攻撃を行った。日ソ間では航空戦と戦車戦も含めた激戦が行われ、双方に多くの犠牲者を出しながらも日本は事実上の撤退。その後、膠着状態に陥った。この間、日本側は長期戦に備えて陣地構築に専念する。

 第3次(8月20日から31日まで)は、ソ連が満を持して挑んできた決戦であり、日本の第23師団は壊滅し、日本は惨敗するに至る。8月20日の大攻勢を決戦と定め、3カ月間の準備期間をあてたジューコフ将軍率いるソ連軍が実行した、完璧なまでの包囲戦であった。8月20日時点での日ソの兵力差は大きなものがあった。たとえば、総人員は日本の2倍、火砲は8倍であり、日本側は戦車は使用しなかった。ジューコフ将軍はその後、独ソ戦で最終的にソ連の勝利を導いた英雄となり、現在でもクレムリンに騎馬像が立っている。

 その後も、日本側は長期戦に備える体制に入り、その後も散発的な小競り合いが続いた。だが、現地がすぐに厳寒期にはいるだけでなく、だが、泥沼化する日中戦争を抱え、これ以上の戦争継続に反対する大本営は、政治的決着による停戦に持ち込むことにする。日ソ双方に停戦に持ち込みたい強い理由があったのだ。

 ノモンハン事件は、ビジネス界のアナロジーでいえば、密かに損失を取り戻そうとして無理を重ね、かえって傷を深くしてしまった為替ディーラーのようだ。関東軍もまた、状況に応じて逐次投入を行い、敗戦という結果をもたらしたのであった。

「工業力」に大きな差があったソ連と日本

 ノモンハン事件はまた、帝国陸軍にとって「初の近代戦」であった。それは、「総力戦」となった第1次世界大戦を本格的に体験していなかったということだ。

 第1次世界大戦(1914~1918)には、連合国の一員として日本も参戦はしているが、帝国陸軍は「青島攻略作戦」という限定された形でしか体験していない(参考「日本に住みつき『技術』を伝えたドイツ人捕虜たち」)。また大戦末期に始まったロシア革命の干渉戦争であった「シベリア出兵」は、対ゲリラ戦争が中心であり、欧州戦線のような正規軍どうしの本格戦争ではなかった(参考「知られざる戦争『シベリア出兵』の凄惨な真実」)。