放火された京都アニメーションの第1スタジオに献花に訪れた人(7月26日、写真:つのだよしお/アフロ)

 7月18日に発生した京都アニメーション放火殺人事件の犠牲者について、京都府警は8月27日、これまで身元が明らかにされていなかった25人分の実名を公表しました。

 これについて、いろいろ議論が取り沙汰されています。大学の情報部署に着任して22年目になる私の観点からは、次の2つがごちゃ混ぜにされているように思われます。

 実名「公表」と実名「報道」です。

 弁護士などが「警察は実名を公表せよ」というのは、捜査が本当に正しいのか、あるいは後々裁判などになったとき、被害者同士が連絡を取れないケースなども一般にはあるので、実名の公表は不可欠という意見からです。

 ここから直ちに、多分多くの人が思い出すのは、2016年7月26日に相模原市で発生した「津久井やまゆり園大量殺傷事件」でしょう。

 この事件では、そもそも警察の発表が「匿名」でなされ、様々な意見が今もって飛び交っている状況です。

相模原障碍者施設大量殺傷事件の場合

「やまゆり園」の事件では、警察は、「家族の意向」などを理由に発表を<匿名>で行うという、極めて例外的な措置をとりました。

 これは、2020年1月8日に始まるとされる、この事件を裁く裁判でも踏襲される可能性が高く、審理の場で犠牲者が匿名という、日本の司法史上でも極めて珍しい事態が発生するものとみられています。

 警察が、犯罪事件の発生後、その捜査によって得られた被害者や犠牲者、あるいは容疑者などの名前を「発表」する背景を考えてみましょう。

 警察は公務員として税金を使って捜査に当たっており、特段の事由、例えば今後の捜査に差しさわりがない限り、きちんと発表する義務がある。

 また、納税者市民は警察の捜査が正しく行われているかチェックする必要がある。そういう観点で、発表されるものと思われます。

 しかし、警察が犠牲者名を「伏せたまま」にするというのと、警察が「公表」した実名を何でもかんでもマスメディアが「実名<報道>」することとの間には、天と地ほどの違いがあります。