――助けてもらってもいいという性格の持ち主が、助けてくれる人を持っていない場合もありますね。
宮下 たとえ安楽死が法律で認められ、制度化されていたとしても、そういう人が選択肢に入れるべきではないでしょうね。助けや支えがないということ自体が問題で、病気や医療のことではない。社会の問題です。安易に優生思想や社会保障など経済的な問題に結び付いてしまう可能性もあります。
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安楽死は「幇助による自殺」
――4つの条件を満たし、自我が強くて揺るぎない死生観を持った人であれば、スイスで安楽死ができるということになるのでしょうか。
宮下 小島さんは死期が迫っていたわけではありませんが、苦痛や不自由を抱えながら調べたり、手続きをするのはかなり困難でした。特に言語の壁は高かったと思います。しかし、日本では他人がサポートすることは自殺幇助罪にあたる可能性があるため、どうしても本人がやらなければなりません。スイス国内であれば問題はないのですが、いまの日本では外国で安楽死をすることについても、法的に先例がないのです。
――しかし、実際に安楽死を遂げた人が出て、例ができてしまった。
宮下 これまでに著名人が安楽死を望んだり肯定する発言をしたり、幇助による自殺を遂げたことが話題になりましたが、それを前提として法制化の議論が始まるのは危険です。そもそも、安楽死というネーミングが安楽すぎる。スイスで行われているのは、幇助による自殺です。この本のタイトルも『幇助自殺を遂げた日本人』であれば、ぎくっとする人が多いでしょう。しかも、医師による幇助です。
日本で安楽死を認めてもいいのでは、という医師は少なくないと聞きます。現場に立ち、苦しむ人たちを逝かせてあげてもいいじゃないかと思う人がいるのは当然でしょうが、判断し、処置をすることになるのも医師です。その行為がどんな影響を及ぼすのかは、まだ公にはわかっていません。ものすごいストレスを味わい、2度と患者の前に立てなくなってしまうかもしれない。実際、オランダやベルギーでは、病んでしまう医師が出たことは聞いています。
なぜ死を早めたい人が出てくるのか
――ピンピンコロリという言葉があるように、ぎりぎりまで元気で、死ぬ時は苦しまずにポックリ逝きたいと考える日本人が多いですが、そういった文化というか風潮も関係するのでしょうか。
宮下 余命宣告をされたり、身体の自由が効かない状態になっても、安楽死を選択する以外にいろんなことができると思うんですよ。とくに緩和ケアについては、もっと知られるべきだと思います。安楽死を認めている国は、緩和ケアに注力していないという特徴があるようなんです。でも、日本の緩和ケアは世界的に見ても、かなり進んでいると思います。要件になっている「耐えがたい苦痛」は、緩和ケアでかなり和らげることができるでしょうし、苦しみながら死を迎えたくないという場合は、鎮静(セデーション)を受けることもできます。安楽死、尊厳死、鎮静の違いが一般に知られていない状況で、一足飛びに安楽死の法制化を考えるのは、性急だと思いますね。
――現在、多くの病気を治すことができるようになり、簡単に死ねない時代になったともいえます。作品には宮下さんが「愛に飢えた人」と表現した、安楽死を望む2人のガン患者も登場します。
宮下 小島さんのように死生観が明確で、誰が何と言おうと安楽死を選ぶ人がいるいっぽうで、背景を探ってみると家族とうまくいっていない、孤独な環境にあるといったようなことが本質的な理由で、さみしさから安楽死を望んでしまうケースがあるのではないかと感じました。周りに助けてもらってもいい、という性格なのに、助けを求めてはいけないと考えてしまっている。さみしく生きてきたから、さみしく死ぬしかないと。でも、残された時間が少ないからこそ、生きてきた道を振り返ったり、思い切ってコミュニケーションを取ってみることで、安楽死とは違う人生の終い方を見付けられることもあるんです。
僕は、日本に安楽死を望む人が出てきた背景には、出産の高齢化と少子化の影響が大きいと考えています。出産する年齢が遅くなればなるほど、子どもが手を離れた頃にはすぐ親の介護がやってくる。つまり、子どもが働き盛りの時に介護問題に直面してしまうのです。高齢者や重病の患者は、介護してくれる人たちに迷惑がかかるから安楽死をしたほうがいいと考えてしまうし、介護する方も経済的、体力的な苦痛が増してくると、相手のことをじゅうぶんに考える余裕はなくなってくるでしょう。しかし、それは社会の問題です。そのしわ寄せを安楽死に背負わせて、ブームになってしまっているのではないでしょうか。日本で安楽死を議論するなら、社会の問題をもっと考える必要があると思います。