戦後の豪雨の歴史を振り返ると、1947年9月、カスリーン台風によって荒川と利根川が破堤し、金町、柴又、小岩付近が水没した。1900人以上の死者・行方不明者が出ている。1950年8月末のキティ台風でも江東区や江戸川区が浸水被害に遭っている。

 関東地方に降った雨の大半が、利根川→江戸川、荒川に流れ込むので、このような大きな被害が起こる。とりわけ江戸川区は江東5区のうちでも最悪の地理的条件の下にあるので、「ここにいてはダメです」と言わざるをえないのである。

 江東5区の広域避難計画によると、台風などで荒川・江戸川の破堤が予想される場合には、72時間(3日)前に5区共同で避難計画の検討に入り、48時間(日)前に広域避難の呼びかけ(自主的広域避難情報)を行い、24時間(1日)前には約250万人を近隣の県に避難させる「広域避難勧告」を出す。それでも避難できなかった人には、9時間前に域内垂直避難指示を出すが、これは、地域の指定避難所(小中学校など)に移動させ、また自宅残留者には上層階に逃げる(垂直避難)ように指示するものである。

 垂直避難をした場合、2週間も水が引かなければ、電気、ガス、水道などのライフライン、また食糧供給が途絶えた状態で生きのびねばならないので、できれば広域避難が望ましい。ただ、全住民の避難先をどうやって確保するかは、東京都の西部のみならず、千葉県、茨城県、埼玉県、神奈川県の協力が不可欠である。

 広域避難をせずに約250万人が垂直避難した場合、ヘリコプターや船で救助できるのは、1日に2万人が限界なので、その困難さが理解できよう。しかも、猛暑である。

関東豪雨、12人不明 約700人が孤立

豪雨による洪水に見舞われた茨城県常総市で、警察のヘリコプターで救助される人(2015年9月10日撮影)。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI〔AFPBB News

 江戸時代の水害の歴史について多くの文献に当たって研究したが、河川の流域地帯では、船を常備して備えていたという。たとえば、鈴木理生は、『江戸の川・東京の川』(井上書院、1989年)の中で、「近郊農村の多くは自然堤防上に分布していたこと、縦横にはしる運河の交通になれていたこの地区の人々は、船は現在のマイカーに相当する乗物であり、洪水常襲地帯にはおのずからそれに対応する生活のし方があった」(173〜177p)と記しており、船を洪水対策として使ったことを指摘している。

 私は、都知事のときに、船や運河を防災対策に活用する政策を実行に移したが、江戸時代よりも今の住民のほうが「お上任せ」であり、行政が助けてくれるという甘えがあるのではなかろうか。

千葉方面への避難ルート確保が東京の課題

 都知事を早期に辞職したためにやり残した仕事に、近隣県への避難ルートの確保がある。人々が一斉に避難すると橋や駅に避難者が殺到し、大渋滞、大混乱が生じ、大事故につながる危険性がある。埼玉県との境には川はないので、避難は比較的容易であるが、問題は神奈川県と千葉県に逃げる場合である。

 神奈川県境の多摩川は約2.5キロ間隔で橋があるが、千葉県との境の江戸川や旧江戸川を挟む江戸川区と千葉県市川市・浦安市の間、市川橋と今井橋間は約8キロにわたって橋が無い(江戸川大橋は自動車専用道路なので歩行者は通行できない)。

 そこで、都知事の私は、市川橋と今井橋の間に2本、浦安橋と舞浜大橋の間(約3キロ)に1本、計3本の橋を架けるよう努力した。問題は、千葉県との間の財政負担であるが、森田健作千葉県知事とトップ同士で協議を始めたところで、私が都知事職を辞することになってしまった。

 最近森田知事に会ったが、小池知事になって一切この話は進んでないという。因みに、事務方は、その後も協議を続け、2025年までに事業化したいとしているが、この問題は政治家である知事が動かすしかない。

 国民の命がかかる防災対策の実行にポピュリズムは禁物である。人命が失われてから悔やんでも、何の意味もない。私が『東京防災』と言う冊子を作り、東京の全家庭に配布したのは、そのためである。

 台風が来ないこと、地震が来ないこと、豪雨に見舞われないことを祈ったところで、自然がそれに応じてくれるわけではない。

 2020年五輪の準備の一環として、7月に大型台風が関東を襲い、前線を刺激して豪雨が何日も続き、江東5区が浸水する状況を想定した危機管理のシナリオを書いておかなければならない。