そのため、9年前に崔天凱大使(現・駐米大使)の後任として、程永華新大使が発表された時には、「えっ、あの程さんが大使?」と、中国大使館と付き合いのある日本人たちは驚いたものだ。それでも、創価大学を出ていて日本語が流暢だし、「日中友好の船」で結婚式を挙げたというほどの親日派(知日派?)だし、肯定的には受けとめられた。

駐日大使就任の裏で展開されていた権力闘争

 実は、程永華大使就任の人事には、中国外交部の権力闘争が絡んでいた。

 ごく大まかに言うと、中国外交部の中で、アメリカ・スクールを牛耳っているのが、楊潔篪党中央政治局委員兼党中央外事工作委員会弁公室主任(前外相、元駐米大使)である。それに対し、ジャパン・スクールを牛耳っているのが、王毅国務委員兼外相(元駐日大使)である。

 中国の外相は、5年に一度変わる習慣があるが、2008年3月、楊と王が、外相の座を巡って激しく争った。楊は上海人で、王は北京人。当時の胡錦涛主席は「南方人」なので、上海人の楊の方が有利である。かつ、これは中国外交としてアメリカを重視するか日本を重視するかという争いでもあったため、楊が勝利して外相に就任した。中国では「一つの山に二頭の虎は容認されない」と言うが、敗れた王毅副外相は外交部を去った。

中国外相、ファーウェイ排斥は「正常でなく道義に反する」

ベルギー・ブリュッセルの欧州理事会で開かれた協議に出席する中国の王毅外相(2019年3月18日撮影)。(c)EMMANUEL DUNAND / AFP 〔AFPBB News

 だがそこは、転んでもタダでは起きない王毅である。去るにあたって要求したポストは、党中央台湾工作弁公室主任兼国務院台湾事務弁公室主任。中国が「不可分の領土」と主張する台湾担当部門のトップである。

習近平の「福建人脈」を取り込んだ王毅

 王毅がなぜこのポストに就いたかと言えば、台湾に隣接する福建省こそ、2012年の第18回共産党大会で最高権力に就くことがほぼ内定していた習近平が、かつて17年にもわたって数々の要職を務めていた地だったからである。そこから王毅は臥薪嘗胆し、習近平の「福建人脈」を取り込んでいった。

 それが結実したのが、2010年に忠臣・程永華を駐日大使に押し込んだことだったのだ。王毅は、2004年9月から2007年9月まで駐日大使を務めたが、自分の後任には、ライバル楊潔篪の工作によって、楊と同じ上海人で楊の忠臣・崔天凱が就いてしまった。そのため、崔天凱駐日大使の後任には、必ず自分の忠臣を就けようと決意し、捲土重来を果たしたのだ。