霧に覆われる南京市

街の建物が霧に覆われた南京市(2018年11月27日撮影)。(c)CNS/泱波〔AFPBB News

 東京裁判は、原爆投下や無防備都市爆撃という前代未聞かつ未曽有の「人道に対する罪」を犯した米国が、日本を「大虐殺」の犯罪国家に仕立てて帳消しにするために行ったもので、反論を許さない牽強付会の判決となった。

 マッカーサー元帥が蒋介石政権に依頼して行なった資料集めに始まるが、集まった情報は掠奪・強姦・放火などの「石」(一般犯罪)ばかりで、GHQ(連合国最高司令部)は「真相はこうだ!」で、これらの「石」を大虐殺という「玉」に仕立てる洗脳を行なう。

 資料集めに奔走した中国も、日本に対して「恨み骨髄に入る」辛酸を舐めていたために、集めた資料を基に南京裁判を開廷し、「百人斬り」や6師団長の「暴虐」を断罪した。

 ここでは南京戦に先立つ上海戦から従軍し、戦況の帰趨を冷静に眺め、真実の報道に徹した記者とカメラマンの手記などを参考に論を進める。

現地では「大虐殺」など見なかった

(1)同盟通信・前田雄二記者の従軍記

 「ドカン、ドカンという音が聞こえた。略奪の音である。兵隊は2、3人づつ組んでは、ナタ、マサカリ、金槌を持ち、避難した無人の家の錠前を打ち破っていた」(前田著『戦争の流れの中に』、以下同)。

 南京への追撃戦でのことで、日本兵士の悪行を感情移入することなく見たまま聞いたまま伝えたいという記者魂が書かせた告発の一文である。

 日本軍が南京城に入るのは(昭和12年12月)13日であるが、前日からの攻城は一段と激しさを増していた。

 13日午前零時、6師団が中華門を爆破して占領したのを先途に、午前3時には16師団が中山門上に日の丸を揚げた。同部隊の一部は右翼に回り、玄武湖を挟む太平門と和平門、さらに長躯して下関(シャーカン)も占領した。

 日本軍が残した中国軍の脱出口は揚子江に面した挹江門と定淮門だけである。

 午後になると、市街戦から残敵の掃討戦に逐次移行していく。

 陣地放棄時に敵が行う放火で黒煙がもうもうと上がり、砲火と銃声の響き、一部逃げ遅れた住民の巻き添え、多数の中国軍の遺棄死体などで凄愴の気が漲っていたという。