ところで、本当に研究利用ならば、受精卵に対するゲノム編集は認められてしかるべきなのだろうか。そして、日本医師会や日本医学会が危惧するように、受精卵へゲノム編集技術を用いること自体が人間の尊厳を冒すことになる、と考えられるのはなぜなのだろうか。

 その問題を考える時のヒントとなるのが、イギリスのナフィールド生命倫理会議(2015年)の報告である。
<その応用は破壊的(すべり坂)であり、その便益の分配における公正の問題、特に表現差別の懸念がある>

 つまり、この技術の臨床応用には、「破壊的」と「表現差別」の二つの問題があるということだ。「破壊的」の方は、いわゆる「すべり坂論証」のこと。一度「難病の治療」への応用を認めると、「一般の病気の治療」「普通でないものの治療」、さらには「エンハンスメント」、ついには「嗜好・趣味」への応用と、次々とすべり坂を転げ落ちるように拡大していくということである。

 もう一つの「表現差別」とは、遺伝性疾患を撲滅する試みは、遺伝性疾患の人の存在すら望ましくないと見なし、尊敬を欠くことになるという懸念だ。つまり、普通でないものへの治療の強制、さらにはその存在そのものを否定する「優生学」にまで行きつく、という懸念だ。

「国家の優生学」から「個人の優生学」へ

 古くは、古代ギリシャのプラトンの考え方にまでさかのぼるとされる優生学は、ナチス時代のドイツによって国家優生学として姿を現した。そこでは、7万人の障害者がガス室で殺され、やがて600万人以上のユダヤ人の大虐殺へとエスカレートしていく。

ナチス時代、多数の障害者がガス室で殺害された地・ハーダマールの墓地跡に建てられた碑。「人間よ!人間を尊重せよ」と書かれている。(筆者撮影)

 戦後ドイツは、この反省に基づいて、ドイツ基本法1条1項で「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重することは国家の義務である」と謳っている。

 戦後の日本は、1996年まで施行されていた優生保護法の下で、障害者に対し強制的に不妊手術を行ってきた。聾唖者も対象になっていたという。これは、国家が国民に対して、「あなたやあなたの子孫は、生きるに値しない」と線引きして決めているのと同じであって、とても容認できるような思想ではない。だからこそ、日本でも、今年になってから、かつて強制的に不妊手術をさせられた被害者が、国家賠償請求などを始めているのである。

 ところが一方で、現在は、国家ではなくて、個人によって、この優生思想が引き継がれている状況が出現している。たとえば、新型出生前診断(NIPT)の結果に基づく妊娠中絶や受精卵のスクリーニングの結果に基づく胚の廃棄がそれだ。

 NIPTを実施している病院グループによれば、2013年の導入から3年間で、検査で胎児の染色体に異常が確定した妊婦のうち、およそ97%の人が中絶を選んだと報告されている。

 晩婚化、少子化の下、子供を持つとしたら「健全な子供が欲しい」という心情は理解できる。障害のある子どもはなるべく避けたい。しかし、陽性の検査結果を受けた途端、思考を停止してしまい、中絶や廃棄へと傾いていく。これは「個人による優生学」と言えるだろう。

 このような状況に対して、技術的観点だけに立てば、ゲノム編集技術は、むしろ遺伝子治療で胚の廃棄を防ぐことが期待できる技術だ。その点では大いに評価できるだろう。陽性の受精卵を廃棄するのではなくて、この受精卵に遺伝子治療を行い、誕生へと繋げることができるのである。だから、安全性さえ確立すれば、このゲノム編集技術は遺伝子治療の技術として「福音」となるかも知れない。

 にもかかわらず、私たちがこの技術に不安を隠せないのはなぜだろうか? それはこれが「予防医学」だからだ。国家優生学が、予防と称して病人の排除を行ったように、個人がその役割を果たす可能性がある。わたしたちは本能的にそこに不安を感じ取っているのである。