明治大正、昭和初期にかけての外交官には旧幕臣や親藩出身者が少なくなかったこと、幕府の「蕃書調所」や「海軍操練所」出身者やその門人など、いわば「維新の負け組」が多く登用され、明治政府内で一種の批判勢力を形成していたことなどに、ここ数回触れて来ました。
今回は、そうした失敗体験を持つ幕臣など出身者、いわば「しくじり外交官」たちに「クリスチャン」が多かったこと、その背景や周辺など、やはりあまり多く語られない背景史に触れてみたいと思います。
とりわけ禁酒とクリスチャニティに関連するいくつかのトピックスは明治大正期に外交官だった私の曽祖父・藤田敏郎の例を引いてお話するもので、一般論ではなく、そういうケースもあったというスタディとしてご参考に供すれば幸いです。
藤田は親藩であった作州津山松平藩の出身で、旧幕時代から英学が盛んで蕃所調所などに参加していた先輩たちの薦めで商法講習所、今の一橋大学で学んだ後、いったんは「共同運輸会社」に奉職します。
が、ハワイ王国のカラカウア国王の来日―官製移民団の組織と日本領事館の発足で外務省出仕、ホノルル勤務を拝命し、ハワイでクリスチャンに入信します。
この経緯を少しみてみましょう。
松下村塾からクリスチャンへ~美山貫一の改宗とミッション
1885年、ハワイに着任した曽祖父たちにキリスト教を布教したのは美山貫一(1847-1936)という日本人牧師でした。
美山は長州は萩の生まれ、もとは「内藤匡三郎」というれっきとした長州藩士でした。幼少期には吉田松陰の松下村塾にも影響を受けたといいます。
明治に入って美山家に養子として迎えられ「美山貫一」を名乗り、最初は海軍兵学校で学ぼうとしますが入試に失敗、陸軍省勤務となり渡米、サンフランシスコでオハイオ州出身の若い外交官でキリスト教プロテスタントの一宗派であるメソジストの宣教師でもあったメリマン・ハリスと知り合います。
このハリス、1873年に初来日、翌年には外交官として米国函館領事館に勤務しつつ、日本語を交えて布教し、1877-78年にかけて札幌農学校の1、2期生たちに洗礼を授けました。
新渡戸稲造(1862-1933)、内村鑑三(1861-1930)、宮部金吾(1860-1951)といった人々はすべてハリスのもとでクリスチャンとなりましたが、この間を縫うように、ひと世代上に属する美山も米国本土で洗礼を受け、メソジストの宣教師となります。
ちなみにハリスは1882年にいったん日本を離れますが1904年再び来日、東京を拠点に布教を続け1921年に青山の自宅で亡くなり、青山墓地に埋葬されています。彼が指導したメソジストの学院が青山学院にほかなりません。