森友疑獄の国会証人喚問は与党の丸腰ぶりと戦略の拙劣さをただただ見せつけるだけに終わったように見えます。今後どのように事態が推移するか、見守るしかありませんが、こういう能無しぶりと「教育勅語」は浅からぬ関係にあります。
今回は少し脱線して、健全な対抗勢力、批判的知性がいかに大切か、というお話をいたしましょう。
米国における二大政党制が端的と思います、カウンターカルチャー同士が互いに妍(けん)を競って、より優れた行政であれ司法であれ、立法であれ文化であれ、育てていくのが本来の形と思います。
で、現下の日本の情けないモノポリぶりはどうでしょう?
メディアを統制して一元化するといった拙劣は、悪事の隠蔽などには適していますが、真の意味での強さを生み出すのとは正反対、あまやかされ、スポイルされて、本当の実力は身につけ損なった2世3世が考えるインチキの典型と言わざるを得ません。
そんなお飾りばかり、ひな壇に並べて、軽い神輿は担ぎやすい、というのも情けない話であって、結局そういう組織の内在論理、端的に言って腐敗と空洞化、どこかの市場の地下空間みたいな国にしてしまったから、こんなお粗末な体たらくになっている。
「肝の据わった反骨はないものか?」という現実を、近代日本に求めるとき「親藩・幕臣」あるいは「土佐・肥前」といった<負け組>の強烈な批判的知性が浮かび上がってくるのです。
一橋・東工大~カウンターインテリジェンスの系譜
話が突然変わるようですが、東京大学が官学の最たるものだとして、京都大学が批判的知性に見えることがありませんか?
ノーベル賞も初期は京大ばかりで、自由な知性を印象づけた面があります。
また、東大、京大などの「七帝」(北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州)が「官学・帝大」であるのに対して、東京工業大学や一橋大学が、これらに対抗する批判的知性として、鮮やかな切れ味を見せることがないでしょうか?