モルドバの首都キシナウの街なみ(筆者撮影)

 政府軍と親ロシア派武装勢力の戦闘が再燃したウクライナ東部。ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランス4か国外相による会談で、2月20日、新たな停戦に入ったが、戦いはやまない。

 その一方で、身分証明など、住民の文書のロシア国内での承認に関する大統領令にウラジーミル・プーチン大統領が署名。ドネツク、ルガンスク両州の一部地域は、いまなお、ウクライナ政府がコントロールできない状況にある。

 出口の見えない難民移民問題、頻発するテロ、英国のEU離脱、ドナルド・トランプ米新大統領誕生など激震の世で忘れられがちだが、ロシアとEUの綱引きパワーゲームは続いている。

 東欧ではロシアへのシフトが続く。

 2月初め、「ロシアとEUの新しい関係を期待する」と語ったハンガリーのオルバン・ヴィクトル首相との会談でプーチン大統領はエネルギー協力拡大を表明。1月末、ブルガリアでは、決選投票を大差で制した親露派ルメン・ラデフ新大統領が就任した。

 ウクライナの隣国モルドバでも、ロシア主導のユーラシア経済連合加盟などを主張し決選投票を制した親露派イーゴリ・ドドン新大統領が、就任早々、ロシアとの関係改善を進める考えを示している。

ロシアの膨張欲実現の場

 モルドバは、EUとの連合協定に署名している一方で、事実上独立状態にある「沿ドニエストル・モルドバ共和国」議会が、クリミア危機に乗じるように、ロシア連邦への編入をロシア下院に求める決議を採択するなど、複雑な状況下にある。

 国名が示すように、もともと、ルーマニア北東部とともに「モルドヴァ公国」の一部だったこの地は、ロシアの西への膨張欲の実現と挫折の場なのである。

 ちなみに「モルドヴァ」はルーマニア語で、ロシア語や英語では「モルダヴィア」。慣用的に国名は「モルドバ共和国」と表記され、「バ」と「ヴァ」の区別も含めバラバラで混乱するが、もとは同じ。

 18世紀に入り、オスマン帝国に対抗し得る力を持ち始めたロシア帝国は、同じ正教徒の地モルドヴァ「保護」を名目として、領有を主張するようになる。

 そして、属国内正教徒保護を委ねられるようになると、1812年には、露土戦争後のブカレスト条約で、モルドヴァの東半分が「ベッサラビア」の名で、オスマン帝国からロシア帝国へと割譲されるのである。

 住民の大半はルーマニア人だったが、ロマノフ王朝は南下政策の重要地点と考え、ロシア人やウクライナ人などの入植を進めた。1859年にワラキアとモルドヴァの連合公国が成立したときも、1881年「ルーマニア王国」として完全独立を達成したときも、ベッサラビアはロシア領のままだった。

 しかし、ロシア革命で帝政ロシアが崩壊すると、様相は一転。1918年、モルドヴァ議会はキシナウでロシアからの独立を宣言、さらに、ルーマニアとの統一を議決、ルーマニア議会の承認を経て、ベッサラビアはルーマニアの一部となったのである。

 トランシルヴァニアも獲得し、悲願の「大ルーマニア」が実現。ルーマニアは黄金期を迎えた。

 一方の新生ソ連は、1924年、ドニエストル川東岸「トランスニストリア」に、「モルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国」を創設。工業化され、他のソヴィエト共和国からの移住者も多かったその地で、隣接するベッサラビアに共産主義思想を広め、ルーマニアで革命を起こす機会を窺うようになる。

 1939年8月、独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせたソ連は、40年6月、議定書にはなかった北ブコヴィナとあわせ、ベッサラビアを併合した。

 8月、ドナウ川とドニエストル川に挟まれた南ベッサラビアは北ブコヴィナとともにウクライナ共和国に、それ以外の地域はモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国とあわせ「モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国」となった。

 領土奪還を企てるハンガリーもトランシルヴァニアへと進み、国土を脅威にさらされたルーマニア人の不満は、国王カロル2世を退位に追い込み、軍人でもあるイオン・アントネスク首相が実権を握ることになった。

 そして、1941年6月、独ソ戦が始まると、枢軸サイドにつき、7月、ベッサラビアを「解放」する。

 しかし、黒海、カスピ海の油田地帯を押さえるべく進むドイツ軍とともに、ルーマニア軍はスターリングラードで戦うことになってしまう。

 その戦いの悲惨さは、西独映画『壮烈第六軍!最後の戦線』(1959)が枢軸サイドから描いているが、両軍合わせて200万とも言われる死傷者を出す史上最大の市街戦で、側方に配備されたルーマニア軍も甚大な人的経済的被害を受けたのである。