僕は今から43年前、累積赤字4億円のオンボロ病院にやって来た。
長野県茅野市にある諏訪中央病院は公立病院だけど、赤字でいいとは思わなかった。温かな医療を提供しながら、黒字にしたかった。
僕は小さな時に親から捨てられ、貧乏な中で育った。お金の大切さは身に染みている。どこにも行けない子だった。図書館の本で好奇心をいっぱいに膨らました。
いつかみんなが行かないような所に行けるような人間になりたいと思った。そんな思いが25年前、チェルノブイリの放射能汚染地に関わるようさせたのだと思う。
そして12年前、イラク戦争で傷ついた子供を助けにイラクへ支援に入った。イラクの難民キャンプを歩いたり、白血病の子供たちを助ける活動をし始めたりしたのは、子供の頃の夢だったからだ。
開かれた病院づくり
開かれた病院を作ろうと思った。一番は時間的に開かれていること。24時間いつでも患者を診る。かつてこの国の医療はたらい回しという嫌な言葉が当たり前のように広がっていた。どんな患者もとにかく診るということから始めた。
次に内容的に開かれていること。病気を治すだけでなく、病気を予防するという発想の転換をしようと思った。
年間80回、健康づくり運動のために、仕事が終わった後、村々の公民館を回って歩いた。僕にとってのヌーベルバーグ「新しい波」である。
これは地域とつながるうえでとても大きかった。信頼を勝ち得た。そして患者が増加し、赤字から脱却し始めた。
3つ目は空間的に開かれていること。病気の人が病院に来るだけではなく、地域の人が病院に出入りできるような病院にしようと思った。空間的に開かれた病院を目指した。
そしてほろ酔い勉強会を始めた。もう200回を超す。そのころまだ珍しかった病院ボランティアがたくさん集まった。今も病院の玄関には午前中、ボランティアが立って、お年寄りの受付を手伝ってくれている。
図書室の司書ボランティアがいたり、ホスピスボランティアがいたり、庭造りをするグリーンボランティアがいたりする。
温かい病院にしたいと思った。360床の病院を中心に、横に特養や老人保健施設があり、日本で初めて始まったデイケアがあり、訪問看護ステーションいろはを持っている。多様なメニューを持った複合体が2000年頃、ほぼ完成した。