仕事で新潟に行くことになり、午後に少し時間ができたので、大急ぎではありましたが「出雲崎」という所を尋ねてみました。
いずもざき。良寛禅師ゆかりの場所として、長らく行ってみたかったのです。本当はのちのち語り継がれる「手まりをつく良寛さん」の庵、国上山の五合庵も訪ねてみたかった。
しかし、こちらはまたの機会に譲って、ほんの2時間ほどの寄り道でしたが、まずは彼が生まれた出雲崎を目指して、越後線を柏崎から刈羽方向、北に進みました。
北前船の交通要衝
柏崎、出雲崎といずれも「崎」の字がつくように古くからの岬で、北前船が立ち寄る伝統的な交通の要衝でした。
特に出雲崎は、金を産出する佐渡島と航路を結ぶ一大交通拠点だったので、幕府直轄の天領とされ、北國街道の出雲崎宿も大いに栄えました。
1689=元禄2年、旧暦の7月4日、新潟に程近い弥彦の宿を午前8時頃、立った旅人たちがありました。午後4時頃には出雲崎の宿場に到着します。
町の真ん中にある宿「大崎屋」に入った一行は疲れを休めます。その日は大雨が降ったと記録があり、翌7月5日の朝、出雲崎をあとにしてからも雨の中を歩いて柏崎に入ってからも雨降り。
7月6日、7日は直江津でしたが、やはり雨降りが続き、七夕の7日は昼のうち小止みになったと思ったら夜は豪雨になってしまったらしい。
こんな細かな記録が残っているのは、出雲崎に投宿したこの旅人が、宿の大崎屋で詠んだ(?)とされる
「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」
の句があまりに有名だからにほかなりません。芭蕉こと松尾甚七郎(1644-1694)が「奥の細道」の旅で出雲崎を訪れたのは数え年で46歳の秋のことでした。
芭蕉の幻視と真実
秋と言っても7月の初めです。古くからの考え方では1、2、3月が春、4、5、6月が夏で7月は秋の初めということになります。
芭蕉はのちに「銀河の序」と呼ばれる跋文をこの句に付していますが、そこで彼は
越後の国 出雲崎といふ処より
(越後の国 出雲崎というところから)
佐渡が島は海上十八里とかや。
(佐渡ヶ島は海路で18里だということだ)
谷嶺の険阻くまなく、東西三十四里
(谷や嶺のけわしい細部までくまなく、東西34里あるという)
波上に横折れ伏せて、まだ初秋の薄霧
(大きな島が波の上に横たわり伏していて、いまだ初秋で薄霧も)
立ちもあへず、さすがに、波も高からざれば
(立たず、波も高いシーズンではないので、)
唯 手のとどく計になむ見わたさるる。
(ただ、手の届くほどの距離に見渡される)
と記しています。
(「真蹟懐紙」による。異なる写本も多く伝わっています)