ロケット弾のブランコで遊ぶ子どもたち シリア反体制派の町

シリアの首都ダマスカスの北東に位置するドゥマで、ロケット弾の残骸を利用してつくられた遊具に乗る子供(2016年9月14日撮影)〔AFPBB News

 ドナルド・トランプ氏の米国大統領選挙当選は、英国のEU離脱と並んで、2016年という年号を未来の受験生に暗記させることになるかもしれません。

 一言で言ってリスク対策が甘かった。と言うより危機管理という観点が全くなかった。

 実際に大統領職に就任した後、どのようなスタッフと、この公職経験が全くないまま70歳を迎えた無手勝流の高齢者が米国の舵を取っていくのか、本当に心配です。

 しかし、ここではもう少し身近な、でも看過すべきではない事故、いや事件を考えてみたいと思います。

 11月6日の夕刻、東京都新宿区の明治神宮外苑で開かれていたアート・デザインのイベントで、展示物のジャングルジム相当の木製構造物から出火し、中で遊んでいた5歳の男の子が亡くなり、助けに入った父親と通行人の男性が大火傷を負うという、あってはならない惨事が発生しました。

 報道が伝えるところでは、このジャングルジムは「学校作品展」の中の1つ、日本工業大学の学生有志が作った「素の家」という作品で、「木製のジャングルジム」に「木の屑が絡みつくように飾りつけられ」「上下から電灯で照らされて」ライトアップされていたとのこと。

 このライトが、元来はLED光源であったものが、作業工事用として学校から貸し出された白熱灯を用いた投光器も予定外に併用され、これが過熱しておがくずに火がつき、火災に至った、との観測が伝えられています。

 私は1999年に人事があって以来、大学機関で「アート系」の学生を指導する教官ということになっており、「アート指導」なるものの現実をいろいろな角度から見てきました。

 今回の火災は、直接的には頭のない学生の犯したミスから取り返しのつかないことになってしまったのだと推察されますが、率直に言って、ここまでひどいことになった理由は、指導者ならびに行事の主催者側に多大な責任があると指摘せねばならぬように思います。

 法律家ではありませんので、民事、刑事、また行政的な側面も含め、どのような責任といったことは述べられませんが、ここ15~20年ほどの、ヤワくなってしまった教育機関全般の中でも、とりわけ脇が甘いように思います。

 と言うか、締めるべき脇と呼ぶべきものがしばしば存在しない「アート系」の現状から、教育全体の落とし穴に警鐘を鳴らすべきではないでしょうか。

 少子高齢化の進むなか、顧客として学生(のスポンサーである親)を囲い込むことで生じた、危機管理体制といった考え方が全くないレジャーランド型のエンターテインメントと呼んだ方がふさわしい大学・・・。

 教育という名を付すこと自体に疑問を抱く場合も少なくない、そういう中から今回のような災害が発生したのは、いわば必然ではないかという気がするのです。

 以下具体的に記してみます。

アート系教官として、なすべき指導

 私が初めて大学の教壇に招かれたのは1999年、慶應義塾大学の非常勤講師として「音楽への今日的アプローチ」という授業を担当した時でした。

 4月にスタート、その年の8月に人事があって東京大学に常勤で呼ばれましたので忙しくなってしまい、慶應で教えていたのは1999~2001年の3年間だけでしたが、学生たちから様々なアプローチがあり、学園祭の歌コンの審査員から、学外イベントの成人保護監督者役まで、いくつもの依頼を引き受けました。

 例えば、最初の年の秋、1期生のT君から、「六本木でレイヴをやりたいんですけど、みんな未成年なんで、店を借りる時に成人の保護者が必要なんですが、お願いできませんか?」と頼まれました。

 「僕は非常勤、常勤の先生に頼むのが筋なんじゃないの?」と問い返すと、「頼める先生がほかに誰もいないんです」という返事。

 まあそうかもしれません。大学1年次は教養の大人数講義などが中心、私も160人ほどの履修者がある大人数教室での授業でした。