小説『「とうさんは、大丈夫」』は次のように始まる。
場所は、埼玉県志木市の市役所。朝霞児童相談所・主幹の澤村正雄が洗面所で顔を洗っている。3日前からろくに睡眠をとっておらず、肉体的にも精神的にも疲労の極にある中で、なんとか気持ちを奮い立たせようとしていると、廊下を歩く足音が聞こえて、澤村は慌てて会議室に向かう。
一足早く入室している来訪者に詫びを言おうとしたところで、「あんたが澤村さんだね」と訊かれて、「はい」と答えた澤村の頬に男の放った拳が当たった。
<おい、おれがどんな気持ちでマレーシアに単身赴任していたかわかるか。女房と娘2人の女所帯で、ただでさえ心配なのに、むかいのアパートにいる母子家庭を助けたいなんて言われてみろ。しかも児童虐待だっていうんだろ。おれはとにかくやめろって言ったんだ。薄情だけど、下手にかかわって、とばっちりを食わされちゃたまらないからな。そうしたらあいつはあんたの名前を出して、担当の児童福祉司さんからも同じように注意されたってうれしそうに言いやがった。誰にでも気を許すやつじゃないから、いつか会ってみたいもんだって思ってたらこのざまだ>
やや説明過多なセリフだが、男が怒りを爆発させたのには以下のような事情があった。
埼玉県志木市宗岡に住む吉田美佳(39歳)が、3日前の昼間に、近所に住む元飲食店従業員の女性(22歳)に自宅前で襲われた。金属性の工具で執拗に殴打されたため、美佳は腰の骨を折る重傷。容疑者は前日まで埼玉県内にある病院の精神科に入院していた。
澤村を殴った男は美佳の夫であり、容疑者の女性が「むかいのアパートに住む母子家庭」の母親である。虐待されていた4歳の娘は3カ月前に澤村によって保護されて、現在は朝霞市内にある児童養護施設で生活している。
朝霞児童相談所としては、通告者が誰かを保護者に知られないように細心の注意を払ってきたつもりだが、事件が起きてしまった以上、責任は免れない。事実、新聞社をはじめとするマスコミが押しかける一方、抗議電話も相次いで、朝霞児童相談所の職員たちは対応に忙殺されていた。
そこに被害者である美佳の夫が帰国して、志木市役所の会議室で澤村にいきなりパンチを浴びせたというのが冒頭のシーンである。
事件は私の創作であり、実際の事件に取材したものではないが、近隣の家庭で児童虐待が疑われた場合に、最も危惧される事態であるのは間違いないだろう。