日本の高等学術が現在掲げているいくつかのモットーがあります。
例えば「卓越性(excellence)」と言いますが、これはまあ、何か優れているということなのでしょう。
あるいは「流動性(mobility)」、様々に動き回るということを言っているようです。さらには「多様性(diversity)」、これはいろいろあるということでしょうか。
で、思うのですが、こういうお題目というのは、単に掲げるだけではほとんど意味がありません。その言葉を使っておしまいになる。
予算を取るための政治の言葉というのは大体そうしたものです。
曰く「このプロジェクトは卓越している。なぜなら卓越しているから卓越なのだ。また多様であるから多様であり、極めて流動的だから流動的だ。何か文句あるか?」
こういうふうになるのは、たいてい頭がついておらず、その弱さを隠すために権威主義に陥っている場合で、そういうバロメータにもなると思うわけです。
例えば、この「卓越性」「多様性」「流動性」という3つの言葉に、本当に命を与えるとしたら、どのような一身具足の生きたシステムを考えることができるか?
そういう高等学術・研究教育のあり方を考えてみようと思います。
対概念から考える
17年ほど前、東大に招聘されて学内の仕事というものにタッチし始めた当初、私は30代前半でしたが、ある文系の優れた先生にお話を伺い、なるほど、と感心したことがあります。
上のような言葉の並びを、単なる言葉遊びにしないために「対概念」で考えてみる、と言うのです。
「卓越」の反対は何でしょう?
「低劣」かもしれないし「凡庸」というのもあるでしょう。ありがちでつまらないもの、不徹底でその場限りの思いつき、言ってみたけど誰も責任など取らない・・・。
まあ、選挙で普通に目にする膏薬、もとい公約の類は、すべてこの「対概念」の方に含まれそうです。
そこでそれらを総称して仮に「反卓越」と呼ぶことにしましょうか?
で、卓越するにはどうすればよいか、と言うと、この「反卓越」を徹底して排除していけばいいんですね。