安倍晋三首相がリトアニアのロレータ・グロウジニエネ国会議長と3月2日に首相官邸で会談した記事があった。その中で首相は第2次世界大戦中にナチスに迫害されたユダヤ人にビザを発給し、命を救った駐リトアニア領事代理の杉原千畝氏に触れ、「多くの日本人が杉原氏を通じてリトアニアに関心を持っている」と述べたという。
会談相手がリトアニアの国会議長であったので、話が杉原氏に及んだのは理解できる。
ただ、アドルフ・ヒトラーのナチに迫害されていたもっと多くのユダヤ人を救出した日本人がほかにもいて、イスラエルで最も権威ある顕彰を受けていた軍人たちがいたことを知っておくことは、歴史の中の日本および日本人を考える上で大切なことであり、また今後の難民対処等にも資するものではないかと思料する。
人道・人権を重んじる日本
日本は人権を重んじる国だと言われる。テロの犯人を開放する間違った処置をした首相もいたが、下記のようないくつかの事象や植民地経営などを見ると、人道主義というのは「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」であろう。
1854年、日露和親条約締結交渉のために伊豆下田に碇泊していたロシア使節エフィム・プチャーチン提督乗艦のディアナ号は、安政大地震による津波で大破し、修理に回航する途中で沈没する。酷寒の海に投げ出された約500人の乗組員は沿岸漁民たちの尽力で全員救出される。
その後、日本は船を建造し、彼らをロシアまで送り返す。こうした行為がロシア側に感銘を与え、ロシアは返礼に艦載砲を寄贈する。その1門は現在も靖国神社の境内に展示されている。
1872年には横浜に入港したペルー船マリア・ルース号から1人の中国人が逃亡してきた。船はマカオからペルーに向かう途中に修理のために寄港したもので、人身売買で奴隷として扱われた苦力231人が乗船していた。
日本側は船内に閉じ込められていた全員を保護すると同時に、船の出港を禁止して船長を訴追する。ペルーは日本の措置は国際法に違反するとして対立したが、副島種臣外務卿は一歩も引かず、人身売買は人道に反すると主張。その後の裁判で日本の主張が認められ、奴隷は本国に送還された。
1890年、オスマン・トルコ帝国から答礼に来日したフリゲート艦エルトゥールル号は、明治天皇に拝謁する責務を果たし帰国の途に就く。老朽艦でもあった艦は台風に進路を阻まれ、和歌山県沖で座礁沈没する。
近隣の村々から駆けつけた人々は異国で息絶える乗組員たちの無念さを思って悲しみながらも、溺れて助けを待っているかもしれない乗員を救うため嵐の海に飛び込んでいった。
しかし、パシャ提督以下587人が犠牲になる。救助された負傷者69人を自分たちの体で温め、乏しい食料品をかき集め煮炊きして回復に努めた。