このところ海外で大学間交渉に関わる「アカデミック・ディプロマット(学術外交官)の仕事が続き、痛感したのですが、今みたいな経営をしていると、日本の大学、特に大学院の過半は数年で潰れるという印象を深くしました。
もっとはっきり言えば「ディプロマ・ミル」扱い、つまりお金さえ積めば内容無関係に学位を発給する似非教育機関とみなされる現実的に高い可能性を危惧したものです。
こういう話は大学の中で発言しても、微妙に寒い空気を作るだけで実効的な変化は期待できないと思いますので、公益に資する形でコラムに記そうと思うものです。
大学院でなすべき指導とは?
日本の大学は19世紀後半、西欧列強に追いつくべく科学や社会制度を模倣するために急遽導入されたもので、そこが浅いのが難点です。
こういう書き方は普通、あまりハッキリしないと思いますが、私は日本国内では一番古い東京大学で、新しい世紀を迎えるにあたって「21世紀の東京大学」という特集を、全学広報委員という立場で2号分1年間、対外広報誌「淡青」という冊子の編集担当者として、当時学内で可能な限りの資料をフル動員して取り組んだ経験があります。
日本で深い意味での「大学」が設立された年号としては「八宗兼学」を掲げる仏教寺院として四天王寺(593)や東大寺(金鐘寺として:733年頃)などの年号を挙げるのが妥当だろうと個人的には思います。
これらは世界最古の総合大学とされるボローニャ大学(1088)やオックスフォード大学(1096年頃)よりもはるかに古く、国際会議などの場では、世界に誇るべき日本の学術の原点として、私がしばしば言及するところでもあります。
しかし、残念ながらそのような仏教教学の伝統は、日本の近代総合大学の原点とは断絶しています。
もっとハッキリ言うなら、明治政府初期の政策の中では「廃仏毀釈」が(江戸幕府の寺社奉行支配システムの解体と並行して)進められており、国内大学第1号として設立された東京大学とは縁もゆかりもないことが明確です。
日本の大学は根がない、デラシネ(根なし草)という出自を持つことは、真摯にアカデミアを考えるうえで(たとえばオックスフォードなどと仕事しようというとき)謙虚に受け止めるべき原点と思っています。