良い道具が好きだ。例えはカメラ、ゴルフクラブ、機械式時計、万年筆、ロードバイクなどなど枚挙にいとまがない。だいたい硬くて黒光りする美しいものに惹かれる。良い道具に出会うと、早速その仕組みや構造に宿る非凡さを研究してしまう。これは男子独得の性癖なのかもしれない。

 良い職人さんや燻し銀の味のある俳優さんにも、失礼ながら「良い道具」を思わせる方々が確かに存在する。最近、自分も良い道具として、できれば世の中に役に立つものでありたい、と考えるようになった。そのきっかけは、ある作家の「自分のことを軽くみる習慣」というエッセイである。

 自分は「道具」として機能しているか

 自分を軽くみる? この言葉に出会ったとき、ピンとこなかった。要は、自分のことを重大に考え過ぎる。自分が不幸だ、不幸だと嘆く多くの日本人が存在する。その背後には、こんなに大切で価値のある自分が、なぜこんな目に遭わないとならないのか、という一種の奢りがある、というのである。厳しい言葉だ。権利、権利と声高に主張する一方の日本人も多くなったようだ。「軽くみる」とは、もっと自分を道具と見做し、鍛錬せよということである。

 我々エクゼクティブサーチの候補者にも、いわゆる「金看板」のキャリアを持った方々がいる。家柄、育ち、学歴、就職企業、役職、年齢、年収どれをとっても申し分ない。ただ、我々はその方々と一緒に働いたことがないので、仕事ぶりは想像する他ないのである。

 どういう意味かというと、これまでの実績や成果が、ご本人の実力なのか、金看板の威力なのか、分からないケースが多いということだ。

 転職して問われるのは、まずは個人の実力、次にチームビルディングやコミュニケーションの能力である。皆の力を借りないと何事も成就しない。個人の実力とは、ある「専門性を持つ道具」として役に立つのか? ということである。過去の金看板の経歴を転職先で主張しても始まらない。