福島県には、福島のことを「フクシマ」とか、”Fukushima”などと表記されることを嫌う人が少なくない。地域の問題が世界的な課題となっていること、それが見知らぬ場所で見知らぬ他者たちの議論の題材となっていることを、受け入れ難く感じている。
福島の問題の難しさの1つは、原発問題に関心を寄せるような「意識の高い人たち」と、地元で生活している住民の多くの価値観や感覚とが、大きく異なっていることに由来している。この2つは、まるっきり正反対のように見えるときすらある。
「意識の高い人たち」が抱いている空想と、その人々が福島に関わる時に(無意識的に)抱いている願望は、次のようなものだろう。私は平成24年に東京から福島県南相馬市に引っ越したが、これから書く内容は、その時に抱いていた空想の内容でもあることを、あらかじめ告白しておく。しかし私の考えは、その後に現地で3年暮らす間に、ずいぶんと変わったと思う。
「原子力ムラをめぐる空想」と仮に名付けよう。政府、電力会社、国際機関、大手マスコミ、大学などの学術機関と権威ある立場の学者や医者、大手企業、その協力企業などが作り上げている「仲間たち」が、ズルズルベッタリと結びつきながら、表面ではキレイなことを言いながらも、裏ではあらゆる策謀を張り巡らし、嘘と秘密で固めた上で、国土や国民を汚し、その富を奪い、危険にさらしている、そういう空想である。
そして「意識の高い人たち」が、福島の問題にかかわる時にさらに無意識的に連想しているのが、そのような嘘と秘密に乗せられていた住民たちが、真実に目覚めて「原子力ムラ」の人々に対して正当な抗議と闘争を開始し、やがて勝利をおさめるというストーリーであろう。
外部から原発事故被災地に関わろうとする支援者の一部には、この「偉大な闘争」において重要なポジションを占めることを無意識的に願っている人々がいる。そこにある微妙な傲慢さ(ナルシシズムの問題)が、現地の人々の心には負担となる。
ここで考えを進めるためには、「原子力ムラをめぐる空想」が真実であるか否かを判定しなければならない。しかし、この判断は容易ではない。