ネット配信されている開沼博氏のコラム(俗流フクシマ論批判)を読んだ。22回にわたる連載は既に終了していたのだが、最後は『番外編』として、「福島へのありがた迷惑12箇条:私たちは福島に何が出来るか?」という内容で締め括られていた。あえて挑発的な言葉で綴られたこの論考は、今後の福島の伝え方を考えるうえでとても示唆に富むものであった(少なくとも、私にとっては)。

 開沼氏と私とは、以前に対談経験があり、その内容は『1984フクシマに生まれて』(講談社文庫)という文庫本にまとめられた。震災に関して、お互いの考えを述べ合うことで共感を得ることができたのだが、その後、彼と関わることはなかった。私は私の考えで南相馬市にこもり、医療を中心とした支援活動を行っていた。「アカデミックより先にやることがあるだろう」と考えていたからである。だから、学会や研究会などのディスカッションの場に出向くことは、ほとんどなかった。

 彼のコラムは、「論理とデータとを用いることによって議論ベースの再設定を目指し、同時に、現代日本の地方が抱える窮状や産業、教育、医療福祉の病巣を浮かび上がらせる」ということを信条としていた。いま、改めて読み返してみると、彼は、随分と県外の、特に放射線論者たちからの攻撃に遭っていたようだ。それは、このコラムの「なぜ話が噛み合わないのか?」という副タイトルにも現れていた。

「福島を応援したい」「福島の農業の今後が心配だ」「福島をどうしたらいいのか?」という県外の人からの問いに対して、「一部にではあるが」と断りを入れてはいるものの、「その中には“問いがある”のではなく、“主張したいことがある”ようにしか思えない」と述べていた。

 どういうことかというと、「福島の子供たちを今からでも移住させて救うべきだ」とか、「政府は福島での農業を禁止すべきだ」とか、「マスメディアは情報隠蔽をやめるべきだ」とか言うような人の中には、「自らの主張を肯定してもらいたい」、あるいは、「主張を貫き通すことで、承認欲求を得たいだけ」というものもいると訴えている。