日本で最初に磁器の原料となる陶石が発見された泉山の採掘跡地(佐賀県庁の石井正宏さんに案内していただいた)

 成田空港第3ターミナルを始点とした幸せ貧乏記者の旅は、佐賀空港を出る。朝からしとしと降り始め飛行機が飛び立つ頃には大粒の雨となった東京地方とはうって変わって、雨はやみ、雲の間からわずかだが青空が見える。

 荷物になる傘は持ってこなくて正解と思いつつレンタカーに乗り込んだら、「傘はお持ちですか」の声。レンタカーの店員さんからだ。

 「いいえ。雨雲は東へ去ったようですからいらないでしょう」と言う私に、「ところによりにわか雨という予報だから1本入れておきますよ」

 こういうのを心憎いサービスと言うのだろう。都会で日頃、米国流のマニュアルに沿った画一なサービスに慣れさせられた身にはとりわけ染み入る。「日本っていいなぁ」、旅の初めに気分は爽快である。

 有明海の干拓地に作られた佐賀空港を出ると、あたり一面は見渡す限りの田んぼ。高低差がほとんどない真っ平な土地が続いている。すでに田植えは終わっていて稲が威勢よく伸び始めている。

倹約は投資のためにある

 最初の取材先である有田商工会議所をレンタカーのナビに入れると43キロの表示。案内では高速道路を使えとなっているが、まぁその必要もないだろう。幸せ貧乏記者には倹約がよく似合うのだ。

 そうそう。倹約と言えば、幕末、ここ佐賀を歴史の表舞台に押し上げたのが、佐賀藩の第10代藩主・鍋島直正の倹約のおかげだったことは忘れてはならない。直正は別名を閑叟(かんそう)と言い、徹底した倹約ぶりは有名である。

 例えば、役人の数を一気に5分の1に縮小した。また、父の代に積もりに積もった町人に対する13万両という借金の2割だけを返し、残りの8割を棒引きさせた。この強引なやり口にも、町人たちは2割だけでも返してもらえたことに喜んだという。

 こうして破綻していた藩財政を立て直したわけだが、財政を立て直すことだけが鍋島閑叟の目的ではなかった。