スイスの首都チューリヒから西に車で20分、696メートルの小高い山ハーゼンベルクを登っていくと、鮮やかな黄色い外壁の建物が目に飛び込んでくる。ヨーロッパにたった1軒しかない懐石温泉旅館「兎山」だ。兎山の名前は、ハーゼンベルクがドイツ語で「うさぎの山」の意味であることに因んだ。
兎山の懐石料理は世界的な権威とされるレストランガイド「ミシュラン」の2009年版、10年版で2年連続の星を獲得した本格派。広々とした畳の部屋に一歩足を踏み入れれば、スイスであることを忘れてしまいそうになる。
和の趣に満ちた兎山は、スイスの有力日刊紙・NZZなど、地元新聞や雑誌にもたびたび取り上げられている。その評判は近隣の国にまで広がり、ドイツ、フランス、イギリスからも宿泊客が訪れるほどの人気だ。(文中敬称略)
バリバリの金融マンが、旅館のオーナーに
兎山のオーナーは倉林正文。野村証券のスイス駐在、スイスのプライベートバンク勤務を経て独立。自ら投資顧問会社を経営していたバリバリの金融マンだった。
旅館経営に乗り出すきっかけになったのは、ちょっとした行き違いだった。倉林は投資目的でハーゼンベルクにマンション用地を取得したのだが、全ての手続きを終えた後に、管轄当局から住宅を建築できない区域だとの通告を受け、計画変更を余儀なくされたのだ。長年、金融取引という実体が見えづらい世界で働いてきただけに、心の中には「いつか、何か形に残ることをしたい」という思いがあった。
ハーゼンベルクの近くには、ローマ時代から湯治場として栄えたバーデンの町がある。「和食や漫画などの日本文化はどんどんヨーロッパでも紹介されているけれど、さすがに温泉旅館を体験したことがあるヨーロッパ人は少ない。ここに旅館を建てたら、きっと多くの人に喜んでもらえるはず」とひらめいた。
「無資源国と言われる日本だけれど、技術という素晴らしい資源がある。日本の職人を呼んで、日本の技術の粋をスイスの人に見てもらおう。寿司や鉄板焼きだけでなく、500年もの歴史を持つ素晴らしい料理があることを知ってもらいたい」──そう考えると、倉林の頭の中に次々とアイデアが湧いてきた。
日本から宮大工を招き、総工費7億円を投資
(写真提供:兎山)
兎山には洋室もあるが、日本の伝統建築である数寄屋造りの「山の間」と書院造りの「月の間」の2つの和室を用意した。それぞれ約50坪(166平方メートル)のゆったりとした広さで、床の間から欄間、障子、丸窓に至るまで、最高級の材料を日本から運び込んで内装した。細部にまで上質感が溢れ、日本の高級旅館と比べても全く遜色がない。さらに「山の間」には炉を切り、本格的な茶の湯まで楽しめる凝りようだ。
この2つの部屋を作るために、倉林は日本の伝統建築の最高峰の技を受け継ぐ宮大工を招聘した。宮大工が鑿や鉋を使って木材をミリ単位で繊細に整えたり、くぎを使わずに凹凸に加工した木材を組み合わせる作業を見た地元スイスの職人からは、その技術の高さに、たびたび賞賛の拍手が上がったという。